金色の螺旋

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第十章 落暉の女王

二十四.恭順
 竜の化身と呼ばれ畏怖された男は、見る影もなく痩せ衰えた姿と為り、人知れず死を待っていた。
 瞑目すると視界を黒闇が覆い、濃霧と為って棚引いたかと思えば立ち消える。其の向こう岸には、男が離れて久しい現世が広がっていた。
 身命を賭して守り続けてきた只一人の女王が、打ち拉がれ、苦悩の末に全てを壊そうとするのを見た。魂を通い合わせた同志たちと作り上げた王国を、自らの手で破滅へ向かわせる彼女は、男の目に痛々しくも憐れに映った。
 女王が次々と臣下たちの首を刎ね、投獄し、追放してゆく様を見るのは初めてではなかった。彼女が夫を殺して王位を手にした時にも、そんな光景を幾度も見た記憶が有るが、あの時とは根本的な何かが違っていた。
 彼女の暴挙は其れだけに止まらない。人界を憂い、和平を持ち掛けてきた敵国の女王に理不尽な要求を出して突き返し、戦を続けると高らかに宣言した。野心は有れど、聡明で国を想う彼女は、もはや何処にも居なくなってしまったと思われた。
 しかし、手の届かぬところで眺め見るうちに、男は自ずと気付かされる。女王は狂ったのでも、狂わされたのでもない。そう見せ掛けて何かを守ろうとしているだけなのだ。だからこそ、今の彼女が余計に痛ましく感じられるのだ――と。其の真実に行き着いたのは、此の男只一人であった。
 そして次に見せられたのは、直ぐ其処にまで迫る未来。目を覆いたく為る程の悲劇が、もう一度女王と王国に襲い掛かる。其れは彼女の死であり、王国の滅びであった。
 絶望に埋もれた終幕は、既に過ぎ去った事実であるかの如く、生々しさを帯びて突如顕現した。生ける屍同然と為り果て、床に臥し動けぬ男には、傍観することしか出来ない。大地を叩き、慟哭を上げたく為るがそんなことすらも叶わない。
 絶念の渦に巻き込まれ、這い上がる力すら無い現実に失望した際、外界から何者かの声が飛び込んで来た。
「自分の限界を思い知り、喪失する覚悟は出来た?」
 初めて耳にする声だが、辺りに立ち込め始めた独特な気に依り、其の主を推測するのは容易だった。
――黒の邪神か。
 虚空に響き渡る流麗な低声は、女王と自分を奈落に突き落とした張本人のもの。男と女王に同情し、憐憫さえ含ませているが、『情』に見せかけた紛い物に過ぎぬ。彼は初めから全てを見通し、陰惨な結末を知った上で、何もかも仕組んでいたに相違無いのだから。
 男――青竜の枕元に立ち見下ろしている邪神は、少年とも青年とも呼べる年頃で、長い漆黒の髪を一つに束ねている。顔貌は秀麗で優美であり、此の世の者には決して有することの出来ぬ魔性を漂わせていた。
 彼の姿を目にするのも初めてだが、青竜は此の青年が禍つ神だと確信する。紅燐の心を奪い、身体をも支配して弄ぶ邪悪な黒の神が、遂に本性を現したのだ。
『「悪夢」を見せ、惑わせてきたのは……貴様か』
 声帯が衰弱し声を失った青竜は、心の中だけで問い掛ける。
「僕じゃないよ。君の左眼に棲む竜が、本来なら見えぬはずの現実を見せ付けて死へと誘っているんだよ。君を自滅させて外へ出たがっているのさ」
 屈託の無い笑みを浮かべ、仰向けに横たわる青竜の顔を覗き込む。
「僕は此れから、あの女の最愛なるものを奪い取る。其の代わりに、あの女が全てを捧げ尽くしてきたものを守ってやる積もりでいる」
 自ら齎そうとしている災厄を、事もなげに言い放つ。青竜は半眼に開いた右目で黒神を睨むが、其れ以外何ら抗うことの出来ぬ無力さを痛烈に感じる。
「君が怒るのも無理は無いけれど、そういう取引だったんだよ。心配しなくても、約束は守るよ」
 悪びれる様子も無く言う黒神は、腰を落として青竜の耳元で囁いた。
「でも、さっき金竜が見せた通り。此のままだとあの女、僕が動く前に死ぬかもねえ」
 此処に来て、青竜には漸く見え始めた。風前の灯火と為った自分に対し、此の邪神が何を投げ掛け、何をさせようとしているのかを。
 此れまで黒の力に決して屈さなかった青竜も、今と為っては誘いを拒めぬと知った上で、自ずから求めさせようとしているのだ。
 主を、紅燐を奪われ、青竜は此の邪神を激しく憎悪していた。だが、憎い敵に膝を折り救いを求めねばならぬところまで追い込まれている。こうして何も出来ぬまま野垂れ死ぬか、黒神に恭順して一縷の希望にしがみ付くか、残る道は二つに一つである。
 程無くして身を起こすと、黒神は口の端を微かに歪めた。
「『人間』青竜よ。君が望めば、惜しみなく力を与えよう。但し其の代償として、君が得るものと等しい価値のものを貰い受ける」
 其の時一瞬にして、青竜は全てを悟った。
――珠帝陛下。貴女も屹度、斯様な仕打ちを受けられたのですね。
 たとえ何もかも奪い尽くされたとしても、守りたいものが有る。たった一つの守るべきもののために、珠帝は黒神を受け容れたのだ。
 人々の苦悶で退屈を紛らす邪神の戯れだと知っていても、縋るしかなかった。人界中から愚かだと罵られ、後世の者にまで蔑まれるとしても、他に為す術が無かった。
 想像を絶する苦痛と葛藤の果てに、珠帝は黒神の手を取ったのだろう。
『――望む』
 主の決意を察した青竜は、半ば当然のように答えていた。黒神は、彼が肯んずるのを分かり切っていたと言わんばかりに頷いた。
『私がくれてやれるものなど……一つとして無い。貴様が満足しようがしまいが、私にはもう、何も……残されていないのだ』
 青竜は硬直した頬の筋肉を緩め、自嘲の笑みを作ろうとする。
「……未だ、有るよ。君から奪ってやりたいものが」
 そう告げた後、黒神は青竜の左眼に片手を差し伸べた。包帯の下には、邪眼の埋められた箇所から赤黒い爛れが広がっている。
 黒神の白い指先が布越しに邪眼に触れると、働きを失った眼に忽ち熱さが甦った。激痛は無いが、凄烈な灼熱に焼かれているような感覚だ。
「最後の時が来た。あの女の生き様を、此の呪われた眼にとくと焼き付けておけ」
 何時しか笑むのを止めた黒神が、戦慄する程感情の籠らぬ声で宣告する。其の途端、生命を失くしかけた青竜の身体に再び力が宿り始めた。
「……さあ、後は『君』が目覚めるだけ」
 己ではない誰かへの言葉が発せられているが、青竜には良く聞き取れない。左の眼窩より黒の力が流れ込むにつれて、意識が押し流されてゆくのを止められない。
「誰かを『糧』にして真の神巫女と為った時、君は如何に奮え、嘆くのか。天陽の時のように自分の定めに怯えながらも、飛翔することが出来るのか――」
 言い置いて、黒神は姿を消した。青竜は気を失い、来たるべき『最後』に備えて眠りに就く。黒の力を借り、直に訪れるであろう終の戦いに向けて。
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