金色の螺旋

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第四章 紫蘭に捧ぐ

九.決意を新たに
 蘢が目覚めてから、三日。麗蘭たちは、蘢の治療と療養のため碧雲楼に留まっている。其の間は敵の襲来も無く、至って平穏な日々が続き、先日の青竜との戦いが夢のように感じられていた。
 麗蘭と優花は下手に目立たぬよう気を付けながら、旅籠の仕事を手伝っていた。麗蘭は、此れまで幾度か敵に神気を読まれたことを反省し、昔風友に習ったことのある『隠神術』を用いて気を消している。高度な術で、神力の消費が激しく集中力も要るが、一種の修行にもなるし、今後茗の領土に入るにあたって益々必要に為ってくるだろう。
 麗蘭としては、蘢が十分回復するまで待つ必要が有るため、玉英の見立ても考慮して後二週間程は兒加に滞在すると考えていた。阿宋山へ帰る優花を見送り、西に進んで国境の白林へと進む。白林まで行けば、茗は目と鼻の先である。
 ところが三日目の朝、朝餉の席で、蘢が麗蘭と優花の前で驚くべき発言をしたのだった。
「明日、此処を出よう」
 さらりと言う蘢に、麗蘭も優花も箸を手にしたまま目を見張る。
「明日? 其れは……些か急ではないか?」
 麗蘭が言うと、蘢は首を横に振る。
「先程剣を持ってみたら、既に振れる程までになっていたんだ。其処まで治っているのに、出立しない理由が無い」
 確かに、蘢は驚異的な速さで回復している。だが当然完治までは程遠く、依然、体力も戻っていない。傍で見ていれば瞭然である。
「あの……珠帝の勅令のためか? あれが出されたから、先を急ごうとしているのか?」
 一昨日前、茗が聖安との貿易を完全に取り止めるという勅命が、茗女帝の名の下に出されたという知らせが入った。二カ国間の緊張はかつてない程に高まり、双方共に軍備を強化し何時宣戦布告が行われてもおかしくない状態となっている。
「勿論、其れもある。加えて……此処に長く居るのも良くないんだよ。禁軍の最高位たる青竜は、既に帰国して開戦準備に追われているだろうけど……奴以外にも、何時また強力な敵が此処を嗅ぎ付けるか分からない」
 彼の言うことは尤もである。万一そう為れば、無関係の碧雲楼や、號睡たち兒加の人々が巻き込まれてしまう。
「けど、蘢……貴方が本調子じゃないのは私が見たって分かるよ? そんな状態で出発したら……戦うどころか倒れちゃうよ。況してや此れから茗入りするっていうのに……」
 箸を置き必死に訴えかける優花に、蘢は穏やかに微笑む。
「心配してくれてありがとう、優花。でもそろそろ考えなくちゃいけないんだ。此処で時間を無駄にして、開戦までに蘭麗姫を助けられなかったら如何いうことに為る?」
 真剣な面持ちで少女二人を見ながら、彼は続ける。
「蘭麗姫の御命を盾に、茗は有利な状態で戦いを仕掛けてくるだろう。こんなこと、言いたくないし想像もしたくないけれど、そう為ったら……恵帝陛下は、聖安の民は、最悪の選択をしなければならなくなるかもしれない」
 はっきりと言わずとも、麗蘭たちには蘢の言わんとすることが分かっていた。詰まりは蘭麗一人の命を犠牲にして、聖安という国を守ろうという決断をせざるを得なくなる可能性が有ることを意味する。敵国の人質になるということは、将にそういうことなのである。
「其れどころか、戦争に為ったら……人質は即、殺されてしまうことも有る……」
 自分で口にしてみると、実に恐ろしいことだと麗蘭は思う。蘢の言う通り、自分たちが直ぐ動かねば、其の恐ろしい未来が現実となるのだ。
「……僕は大丈夫だよ。こう見えても鍛えているし、剣さえ振れれば何とかなる。だけど……言っておかなければならない」
 其処まで言うと、蘢は麗蘭の方に体を向けて、彼女の目を真っ直ぐに見た。
「正直な話、また青竜のような凄腕の敵が現れたら……今の僕には、生き残る……自信が無い」
 彼にしては頼りなげな、其れでいて切実な言葉。
「情けない話だけど、次は死ぬかもしれない。だから忘れないで欲しいんだ。僕がもし死ぬようなことになろうと、僕を助けようとしないでくれ。君が生きて、敵の手から逃れることだけを考えて欲しい。君が敵の手に落ちてしまっては、全てが潰えてしまうのだから」
 上辺の言葉でも、格好を付けた言葉でもない。彼の心からの言葉は決意と覚悟に満ちた、哀しくも力強いもの。戸惑いを隠せない麗蘭は、頷くしかない。一度蘢に助けられた彼女は、彼の強い望みの通りにすると約するしかないのだ。
「……じゃあ、私も行くよ」
 突然、優花がそう言ったので、麗蘭も蘢も思わず彼女の方を向く。
「どうしても明日出るって言うんなら、私が二人を白林まで連れて行く。地図見た限りだと、空から森を突っ切って行けば直ぐ着きそうだし」
「……だが優花、おまえも紀佑さんから預かった情報を早く持ち帰らねばならぬだろう?」
 開戦目前と為った今、新型武器の設計図は一刻も早く持ち帰らねばならない軍事機密。本当なら、今こうしている時間すら惜しいはずだ。
「そうだよ。其れに君の変化の力は、連続では使えないものなんでしょう?」
 目覚めた後蘢は、優花が半妖であることや大鷲に変化できること、其の力で彼と麗蘭を助けたことを、麗蘭と優花本人から聞いていた。
「私も此処でたっぷり休ませてもらったし、大丈夫。本とは茗に居らっしゃるお姫さまの所まで一っ飛び……と言いたいとこだけど」
 言い終わらないうちに、麗蘭も蘢も頭を振っていた。半妖と言えど戦う力を殆ど持たぬ優花を茗入りさせる等、そんな危険は当然冒させられないし、機密を握っている今は猶更だ。
「だから、白林まで位は一緒に行かせてもらうよ。だめって言われても行く」
 譲りそうにない優花に、麗蘭が溜め息を漏らす。蘢の方をちらりと見ると、同じく仕方がないなという顔で頷いていた。
「……分かった。では、頼む。だが白林までだぞ」
 麗蘭がそう言うと、優花は満面の笑みで大きく頷いた。
「うん、任せて!」
 かくして明朝、三人は兒加を発つことを決めた。其々が心に抱えた言い知れぬ不安を胸中深くに抑え込んで、僅かな希望ばかりを頼りに、先へと進むと思い定めた。
 しかし、前へ走り出すと決めたものの、麗蘭の抱えた蘢に対する罪悪感、無力感、そして自己嫌悪が薄れることは無い。自分の弱さに対する罪の意識を積み重ねながら、只、足掻く。今の彼女には、其れしか無い。
 玉英の作ってくれた朝餉を食べ終えると、三人は席を立つ。残る一日と為った休息の時を、各々が悔い無く過ごすためには如何すれば良いか……思いを巡らせながら。






第四章 紫蘭に捧ぐ おわり
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