金色の螺旋

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第五章 天海の鵬翼

一.光輝なる公子
 蒼い中天に昇り詰めた太陽の下、緑広がる郊野の中に、一本の道が真っ直ぐに通っている。茗との国境に位置する街白林へと繋がる此の土道を、足早に歩いてゆく一人の青年が居た。
 他に白林へと向かう者は、此処数刻の間全く見当たらない。反対方向へと向かって行く者とたまに擦れ違う程度で、人気が無く寂しい道のりである。もう暫く歩き続ければ、正面に白林の街と重厚な城壁が見えてくるはずだ。
 見る者を眩耀する見事な黄金色の髪を、乾燥した風に靡かせながら、海青の瞳で目指す先だけを見詰めて足取り軽く進む。長く旅している割には軽い旅装で、荷と言える物は肩から下げた小さな包みと、腰に差した一振りの刀のみ。
 道沿いに現れた一本の槐の側に、深紅の装束を纏った黒髪の女が立っていた。四神の一……朱雀である。木の下陰に立ち、青年を見据えて動かず、彼が自分の前までやって来るのをじっと待つ。やがて彼が眼前で足を止めると、片足を折って膝を地に付け跪き、恭しく頭を垂れた。
「……紅燐か?」
 青年は女を見下ろすと、『朱雀』ではなく真の名で彼女を呼ぶ。問わずとも『気』を読むことによって、青年には女が紅燐であることは分かり切っている。そもそも姿が見えるずっと前から、彼女が此処に立っているであろうことに気付いていた。其れでも尋ねたのは、今更彼女が自分の前に現れたことに、少なからず驚いていたからだった。
「お久しゅう、ございます」
 頭を下げたまま、紅燐は抑揚の無い声で言う。青年は彼女を見たまま何も言わず、暫くして後、静かに口を開く。
「……如何した? 俺に、何か用か?」
 懐かしい低めの声が、紅燐の耳を優しく撫でてゆく。彼女は内心、青年の声が存外穏やかであったことに戸惑っていた。
「我が主、珠帝陛下からの御託けがございます」
 紅燐は、心の動きをほんの僅かでも悟られぬよう気を付けながら、落ち着いた声で告げる。
「『魔の国の王子にして、神々に名を連ねる昊天君(こうてんくん)……貴殿を我が禁軍の将軍として迎えたい』……とのことです」
 其れを聞いた青年は、一瞬目を大きく見開く。瞠若して言葉を失うも、直ぐに其の煌々しく美しい顔を綻ばせ、声を上げて笑い出した。
「随分と突拍子もない申し入れだな、其れは。人界一の軍を誇る茗が、軍を指揮したことすら無いような青二才を将軍に立てるのか?」
 片手で口元を押さえて笑いを抑えると、青年は再び下を向いて動かない紅燐へと視線を落とす。
「……おまえも良く知ってるだろう? 俺は魔界とはもう、切れているし、『天君』なんて呼ばれていようが実際は神様なんかとは程遠い。俺を味方に付けたって、何の得にも為らないってことを」
 其処で漸く、紅燐は顔を上げて青年を見た。 
――相も変わらず……いや、あの頃よりも格段に、気高く光輝なる御方。
 青年に対しかつて抱いた熱情が込み上げ、思わず溜め息を漏らしそうになるところを何とか堪える。
「陛下は、貴方さまのお力を欲しておられるのです。貴方さまの破邪のお力をぜひ、人界の覇者たる我が国に貸していただきたいと」
「人界の覇者か……確かに『此のままいけば』、いずれはなあ」
 自分の瞳と近しい色彩を持つ碧天を仰ぎ見て、深く頷き息を吐く。そして再び紅燐へと目を落とすと、悪戯めいた光を湛えた双眸を細め、微笑む。
「『朱雀』、珠帝に伝えろ。俺は茗には付かない。聖安には恩が有るからだ。魔界と聖安の同盟とは関係ない、俺自身の個人的な借りだ。折角の嬉しいお申し入れだが、義に反することは出来ない……ってな」
 一片の迷いも無い青年の答えに、紅燐は右手を固く握り締める。
「……承知。しかし」
 彼の答えは、紅燐の予想していた通りのものだった。命じた珠帝自身、期待してはいなかった。だが彼女には、諦め切れない、簡単には引き下がれない理由が有る。
「私は、貴方さまを再び……敵にしたくはありませぬ。応じていただかねば、次に見える時は刃を向けねばなりませぬ……あの日のように」
 伏し目がちな瞼の下、紅玉随の眸を翳らせた紅燐の声には、隠し切れない哀切が潜んでいた。青年は女の潤んだ目を見て微かに逡巡するも、考えを変えること無く首を横に振る。
「俺はおまえが敵だなんて思ったことは、今の今まで一度だって無いさ。多分、此れからも」
 真っ直ぐで爽やかな青年の言葉は、紅燐に胸を抉る罪悪感を与えてゆく。彼の清らかで大きな心が、昔彼を酷く傷付けた彼女をより一層醜くしてゆくのだ。
「だが……其れと此れとは話が別だ。珠帝の要望には応えられない。茗に加担する気は、微塵も無い」
 笑みを消し眼光を鋭くして言い放つ。今後紅燐が、一切の望みを抱かぬように。其れは彼女に対する青年なりの気遣いであった。
 数瞬見詰め合った後、先に視線を逸らしたのは青年の方。
「じゃあな。恐らく……また近いうちに会うことになるかもしれないが」
「……魁斗(かいと)さま!」
 彼が歩き出すと紅燐は立ち上がり、我知らず声を張り上げていた。魁斗と呼ばれた青年は、肩越しに背後を見やる。目に入って来たのは、悲痛な面持ちで小さく身を震わせている紅燐の姿。 
 常に冷静で表情を変えることの少ない彼女が、今にも泣き出しそうな目で何かを訴えかけている。其れでも青年には、彼女に掛けてやれる言葉を此れ以上、見出せなかった。
 立ち尽くす紅燐を残して魁斗は歩み出す。彼の背を見送りながら、紅燐は悟り始めていた……もう二度と、彼と自分の道が交わることは無いのだと。一度交差した道は、互いに遠く離れ過ぎてしまったということを。
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