金色の螺旋

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第五章 天海の鵬翼

七.穢れた生贄
 其の堅牢さゆえに「龍の金城」と称される白林城の西側。琅華山に面している此の辺りは、特に妖に対して鉄壁の守りが敷かれている。城壁の上側と下側の両方に神人が配置され、街への侵入を徹底して防ぐ。また城壁其のものに結界が張られており、巨大な妖力で壁を破壊されぬように為っている。
 数百年前までは、城内に侵入しようとする妖と街の人々が激しい攻防を繰り返したこともしばしば有った。しかし現在まで続く固い守備体制を築いてからは、常に妖側に多大な損害が出るように為る。すると次第に、琅華山の妖が白林を襲うことは無くなっていった。
 人々は、自分たちの努力と知恵、そして犠牲が妖に打ち勝ったのだと信じて喜んだ。実際の要因は、妖王邪龍が「白林には踏み入るな」と命じたことに在るのだが。

 とある夕刻、琅華山に最も近い城門で、何時も通り見張りをする一人の青年が居た。白林に生まれた青年は強い神力を持つ神人で、成長すると当たり前のように、白林城の門兵と為った。
 琅華山に近い地方の神人にとって、男は白林城塞を守る兵士、女は城壁に張る結界を作る巫女に為ることが最大の栄誉とされている。故に此の青年も、自分が門兵として白林城西門へ配置された時には一族中から持てはやされたものだった。
 誇らしい気持ちで城門に立つようになって早、一年。実際の任務は、彼が思い描いていた程華々しいものではなかった。
 遥か数百年の昔に祖先を脅かしていた妖魔たちは、今と為っては滅多に白林へ姿を現さない。一年に数度、心すら持たぬ弱い妖がやって来る程度で、対妖の神人兵といえど戦う機会など滅多に無い。今のような緊張状態でなくとも、只でさえ人通りの少ない西門の前で、当番の時間中厳めしい顔を作って立っているだけなのだ。
 同じ神人である仲間たちとは、噂に聞く強い妖討伐士の活躍を話して盛り上がる。聖安国内全体で見れば、茗との戦が近付くにつれ妖に因る被害が拡大している。茗人との戦いに専念するため、妖討伐が疎かに為るのは自然なこと。国の安定が脅かされれば妖が勢力を増すというのは、過去を振り返っても大抵成り立つ法則のようなもの。
――なのに、何故。妖の巣琅華山の麓に広がる我が白林では、何故妖の脅威が無いに等しいのだろうか。
 己の神力に自信を持つ青年は、日増しに不満と悔しさを募らせていた。こんなことならば、西門以外の場所に配属された方が未だましであろう。山側の西方からは、妖を懼れて山越えを避ける茗軍もやって来ない。他の城門に居る兵から話を聞くと、休む間も無く門の見張りや物資の運搬、町を出入りする要人の護衛等に駆り出されているという。
――俺がこんな所で何も出来ずにいるなんて、何かの間違いだ。
 若い彼は、自分自身を眠れる獅子だと強く信じている。一度機会さえ与えられれば、此の不遇から抜け出してみせると常々思っている。長年鍛えた剣術で恐ろしい怪異を切り裂き、街を守って名を上げる……其の機会さえ、有れば。
 秋涼の候、夕方に為ると一気に肌寒く為る。青年はやや冷たい風を感じながら、定位置から少しずれた腰の剣をしっかりと差し直して大きく嘆息した。今、此の辺りを受け持っているのは自分一人。視界の中には誰一人として入っていない。彼此二刻程ずっと、青年の周囲は同じ風景で在り続けている。
 妖どころか人すらも通らず、視線の先には一年中様相を変えることの無い琅華山が高々と立つのみ。暇を持て余しているだけの時間が長く続き、倦怠感が増すばかり。気怠げに腕を組み、片足を背後の城壁に付けてもたれ掛かる。先程から何度も繰り返している舌打ちをして、重く為り始めていた瞼を閉じた。

 睡魔に襲われるのにも構わず其のまま少し経つと、身体の均衡を崩しそうに為り慌てて強張らせる。仕方なく身を起こして真っ直ぐ前を見ると、先刻までは居なかったはずのものが視野に立ち入っていた。
――あれは、巫女か?
 青年は目を細めて凝視する……妖山の方角から、一人の女が近付いて来る。白い千早に深雪の如き肌、濡羽色の長い髪に紅赤の厚い唇、着物の上からでも分かる悩ましげな姿態。一目見れば夜毎夢魔として現れ出て、男を狂わせるであろう美女が、自分の方へと歩いて来るではないか。
 手足が痺れて頭が真っ白に為り、少しも動けなくなった青年は、だらしなく口を開けたまま女を見入る……信じられない。斯様な女が、此の現世に存在するなどとは。
 やがて、女は目の前で立ち止まる。彼女が人形のような造作の貌に、ほんの小さな笑みを拵えたのを見ると、青年は音を立てて唾を飲み込む。
 巫女ということは、城の結界を作り出し維持する白林の術師だろうか。だが其れにしては、妙だ。女から何の神気も感じられないし、こんな佳人が城で働いているのに耳へと入らぬ訳が無い。
「そなたは誰だ?」
 震える声を絞り、女に問い掛ける。門守らしく詰問しているはずなのだが、青年の顔には締まりが無くなっているのが見て取れる。何もせずとも彼を誘惑する紅唇や首筋、千早の下押し込められている形良い胸へと目が次々に移り、自分が職務中であることすら忘れている。問いに答えない女に腹を立てる代わりに、青年は彼女の唇を己の其れで塞いでいた。
 無理矢理呼び起こされた青年の若い色欲が、女を貪りゆく。女は嫌がる素振りすら見せず笑みさえ見せて、進んで舌を絡めて応じる。青年は荒い息を吐き、劣情に操られた手を女の襟元から滑り込ませて胸へと伸ばす。弄り、柔らかな乳房を乱暴に掴もうとした時、彼は自分の鳩尾辺りに何やら奇妙なものを覚えた。
 まるで肉体が抉られ捻り回されるような感触。思わず女から手を離して下を見ると、何か黒くて長い棒のような物が、胸の下辺りから生えているのに気付く。
……初めて此の女を目にした時から、彼女が不思議な鉄棒を手にしているのに気付いていた。杖にしては短く、形状からして屹度違う。正体が分からぬ其の棒で、女は青年の身体を容赦無く貫いたのだ。
 弱い呻き声を上げて、彼は女の方へと倒れ掛かる。彼女は棒を持たぬ方の手で青年の肩を押さえると、彼を()り貫いていた凶器を一気に引き抜く。ずるりと抜かれた黒棒には当然、多量の血がこびり付いていた。
 女が青年の力無い身体を棒の先で軽く突くと、彼はいとも簡単に大地へと崩れ落ちる。うつ伏せに倒れると女へと必死に手を伸ばし、舌を出して懸命に何かを訴えようとしていた。
 邪神に仕える美しい女……瑠璃の人離れした色香の毒に侵された哀れな青年は、彼の女に依って傷付けられようとも猶、彼女への情念から逃れられなくなっていた。此れが、あの意志強き玄武を籠絡させた傾城の有する、恐ろしい力の片鱗である。
 血を吐きながら死する青年と、彼を殺したばかりである血濡れの棒を交互に見て、瑠璃は艶やかに笑う。情欲に塗れた青年の穢れた血が、彼女の主の持ち物である此の棒……神剣淵霧の鞘に巨大な力を与えてくれたからだ。
「我が君、今一度私にお力を」
 呟くように言うと右手に鞘を持ち、落日へと高く翳す。琅華山で現れたものと同じ黒の気が、今度は真黒い霧の形を取り強まってゆく。 
 落ちつつある陽の光は鞘に集められ、死した青年の血が孕む邪念に穢され闇と化す。黒神の鞘は其の闇を吸収し、鋼鉄すら砕く力を成した。
 何時の間にか黒霧は消え、鮮血が如き赫い光が瑠璃と鞘を覆っている。彼女は身体に黒神の力が満ちたのを感じ至上の悦びを得た。願いを聞き届けた彼の君が、自分に応えて貴い神力を注いでくれたことに。
「……白林の城壁よ、我が主の御力で打ち砕いてくれる」
 そう言った途端、瑠璃は鞘を大きく振り下ろす。死んだ青年をはじめとする白林の民にとって、生命線とも言える大切な壁に向けて。
 たった其れだけの所作により、次の瞬間には街の中まで届く轟音が鳴り響いていた。雲一つない空から突然雷が作られ、血の赤とも闇の黒とも取れぬ光の刃と為って地上に……城壁へと幾度も落ち、分厚い煉瓦で立てられた壁を粉砕する。
「城壁が! 城壁があああ!」
 やがて聞こえ来る、人々の絶叫。瑠璃が一回鞘を振る度に数度落雷し、西側の城壁や城楼を無差別に破壊して行く。崩れた煉瓦の下敷きと為り死ぬ者や、邪神の稲妻に打たれて死ぬ者の断末魔、そして逃げ惑う者の泣き叫ぶ声が入り混じり霹靂と為って轟く。
 城壁が壊れたことへの絶望や恐怖、悲痛……様々な負の力が、黒巫女や黒神の糧として更なる悲劇を生む悪循環。大混乱に陥った街は為す術も無く、此の後のより残虐なる策謀へ巻き込まれることになる。
 神気の結界で頭上に落ちて来る物から身を守っていた瑠璃は、掠り傷一つ負っていない。彼女の立っている城門であった場所を中心にして、凡そ五百間もの壁が何も残さず綺麗に無くなっている。
「……鞘だけでも此れ程の力を見せるとは」
 漸く満足したのか、瑠璃は鞘を振り被るのを止めて手を下ろす。耳触りの良い人々の悲鳴を浴びながら後ろを向き、琅華山に向かって呼び掛ける。
「妖共よ! 城壁は崩れたぞ!」
 直ぐ其処にまで迫って来ている、妖たちの大群に届くよう声を張り上げる。良く通る声が乾いた冷たい空気に響き、風に乗って運ばれてゆく。
「疾く来るが良い! おまえたちの生餌と為る人間共が、恐れや不安に慄きながら(ひし)めいているぞ!」
 程無くして彼女の呼び声に応えるかのように、山の方から不気味な咆哮が聴こえて来る。明らかに人や動物の物ではない、闇に属する妖獣たちの、本能に支配された醜い蛮声である。
 あの神人の青年は気を散じていて、近付きつつある大量の妖気を察知することが出来なかったのだ。もしも彼が、瑠璃の姿を見て心奪われる前に気付いていたのなら、此の惨事は免れられたかもしれぬ。
「……さあ、手並みを拝見させてもらおうか。麗蘭に……昊天の君」
 再び臈たけた笑みを見せたかと思うと、瑠璃は煙と為って姿を消した。自分と主が作り出した惨劇を眺め、ゆっくりと愉悦に浸るために。
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