金色の螺旋

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第七章 光焔の剣

二.敵地潜入
「見張りの兵も置いていないのか……妖山の麓で侵入者の恐れが殆ど無いとはいえ、油断してないか? 茗の奴ら」
 暗がりの中、木の陰に潜む敵を少しも見落とすまいと探っていた魁斗が、幾らか気の抜けた声を出した。彼の後ろを歩く蘢も、頬を緩めて同意する。
「確かに、こうすんなり入国出来るとは思ってなかったね。茗に入ったという実感が無い」
 妖の森を抜けた麗蘭たちは、月と星の光を頼りに真っ暗な林道を歩いている。鬱蒼と茂る木々や霧のために時間の感覚を失っていた彼らは、山を下りると夜闇が濃く垂れ込めていたのに驚いていた。
 はじめは何とかして宿泊出来るような場所を探そうとしたが、諦めざるを得なかった。暫く歩いても杉林が続くばかりで、当分村や街を見付けられそうにない。此の暗闇で、しかも敵国の領土内で、此れ以上動き続けるのも危険だった。
「麗蘭には悪いが、此処らで明かすか」
 魁斗が大きく溜息をついてそう言うと、蘢が渋々了承する。
「仕方無いね……申し訳ないけど良い? 麗蘭」
「ああ、私は構わない」
 本当に済まなそうな顔をしている蘢に、全く気にしていないという笑みを向ける麗蘭。此れまでにも宿が無い状況は幾度か有ったが、蘢が麗蘭に野宿させることを決して許さなかった。しかし、今回は打つ手が無い。
 蘢と魁斗は手際良く薪を集め、火を焚く準備を始める。麗蘭は周囲の様子を窺いながら、妖を避ける結界を張る。それなりに神力を消費するが、野生の獣も近寄らせないため安心して休むことができる。
「ずっと旅をしていたというから、魁斗が慣れているのは分かるが……蘢も随分てきぱきとしているな」
「軍の仕事で野営することもあるからね。慣れているっていう程でもないけれど」
 黒い樹木に囲まれやや開けた場所の中央に、薪を集めて火を点ける。やがて明明(あかあか)とした炎が膨らみ三人の顔を照らしてゆく。
 火の周辺に少しずつ離れて腰掛けた三人は、漸く落ち着いて一息吐くことが出来た。思えば朝早くから歩き詰めであったし、琅華山では緊張し通しで、実に長い一日だった。無意識に気張っていた麗蘭もやっと人心地付き、全身の力を抜いていた。
「干し肉と炒り豆位しか無いが、食うか?」
「良いね、僕も何か持っているかもしれない」
 魁斗と蘢がそれぞれの小さな荷物から食料を探し始めると、麗蘭は自分の荷には何も無いことに今更気付く。
「済まない……全く気が回らなかった」
「気にするな、直ぐに腹が減るから常時持ってるってだけだ」
 魁斗は麻袋を閉じている紐を歯で切ると、遠慮する麗蘭の手を出させて中の豆を分けてやる。
「干し(なつめ)なんかも有るよ。麗蘭は昼間頑張ったんだし、沢山食べて」
 甘く香る棗を掌に数粒載せられると、麗蘭は辺りを見回す。
「ありがとう。こんな夜でなければ、鳥でも射落として来るのだが……」
 実際、孤校に居た頃は皆の食事のために麗蘭が獣を狩ることも少なくなかった。料理はずっと当番制であったので、簡単な物なら彼女にも拵えることが出来る。ただし麗蘭は不器用なこともあってか、苦手意識の方が強い。
「其れ、良いな。じゃあ俺と蘢は調理係だな」
「街に行ったら調味料を買わないとね」
 二人共冗談を言っているようには聴こえず、本当にやる気が有るようだ。やれば何でも出来そうなのが彼らの凄い所だった。
「いよいよ茗に入ったことだし、こうやって外で過ごさざるを得ないことも……増えるだろうね。勿論努力はするけれど」
 そう言った蘢が自分の方をちらりと見た気がして、麗蘭は首を横に振る。
「私は……おまえや魁斗が作った料理を食べてみたいから、外でも構わないぞ」
 彼女の瞳には、自分のことで気を遣わせたくないという気持ちと、彼等が慣れないことをするのを本気で見てみたいという気持ちが半々で含まれていた。
「そう言われちゃあ、一回位は作るしか無いな、蘢」
「……そうだね。孤校に居た頃、もっとちゃんと習っておけば良かったよ」
 棗の他、貝柱の酢漬けや野菜の塩漬けの包みを取り出した蘢は、麗蘭と魁斗に回して分けてやる。昼間何も食べていなかった麗蘭は、食べ物を前にして突然空腹を感じ始めた。
「よし、じゃあ戴きます」
 力強く言うと、魁斗は固い干し肉に齧り付く。
「僕も戴きます」
 軽く頭を下げた蘢も、先ずは魁斗から貰った肉を口に入れる。
「では私も、戴きます」
 彼らが食べ始めたのを確認してから、麗蘭も躊躇いがちに貝や豆を舌に乗せた。三人ともかなり腹を空かせていたらしく、暫しの間無言で食べることに集中していた。
「……茗に入ったは良いが、何処へ向かう? 蘭麗姫の捕らわれている場所ははっきりしないのだろう? 蘢は以前、帝都付近ではないかと言っていたが」
 先ず口を開いたのは、麗蘭だった。
「此の九年間、姫を救出しようと茗に入った者は少なくない。でも帰ってきた者が居ないんだ。中には名うての剣士もいたというけれど、姫の許まで辿り着けたかも定かではない。でも……」
 ゆらゆらとはためく火を見詰めて言うと、蘢は息を吐く。
「恵帝陛下も瑛睡公も、そして僕も、帝都洛永周辺ではないかと見ている。何故なら……」
 言い掛けて逡巡した蘢の代わりに、睨み付けるように炎を直視する魁斗が続ける。
「近くに置くことで『もしもの時』に、直ぐ『対処』出来るだろうからな」
 濁された其の言葉の意味を、麗蘭も何となく理解していた。いつか蘢が言っていたように、蘭麗姫は人質なのだ。彼女の存在を問わず開戦がほぼ確実となった今、一刻も早く助け出さねば命の危険も有る。
「……やはり、目指すは都だろうね。恵帝陛下から下された二つ目の御命も有るし」
「珠帝に近付く人ならざる者……黒巫女の正体を探れという下命であったな」
 つい蘭麗姫のことばかりに目が行ってしまうが、旅の目的は二つ有る。神意を頼らぬ珠帝が、黒巫女を側に置き重用しているのにはどんな理由が有るのか……真相を突き止めるという密旨である。
「此れは……私の勘なのだが」
 口にするのを迷いながら、麗蘭は紫瑤を出る前から頭の片隅に有ったある可能性について話し出す。
「其の黒巫女とは……瑠璃のことではないだろうか。信じたくはないが、珠帝の背後に居る人ならざる者とは、『奴』なのではないか……?」
 もし麗蘭の想像が正しいのであれば、此れまで謎だったことの幾つかについては合点がいく。
「奴が珠帝に力を貸しているのであれば、光龍が聖安に生まれ成長していることを教えていても不思議ではない。青竜自ら聖安まで出向き、私を追って来たのも頷ける」
「そうだな……加えて、麗蘭が真の第一公主であることも伝えているかもな。人質としての蘭麗の価値が低くなったのも、開戦に拍車を掛けているのかもしれない」
 そう言う魁斗も蘢も、麗蘭の発言に対し驚いているようには見えない。麗蘭同様、彼らも元より予想していたのだろう。
「だが何故、黒神は珠帝に近付いたのだ? そうすることで奴が得られるものとは……何なのだ?」
 麗蘭の問い掛けに、蘢も首を傾げる。
「以前青竜が現れた時、僕には奴が麗蘭を殺そうとしているようには見えなかった。もし麗蘭の命が目的ならば、真っ先に狙うだろうに……そうしなかった」
 其れについては麗蘭も気になっていた。もし珠帝が麗蘭を殺せと命じていたならば、態々邪眼を使って動きを封じ込めずとも一撃でそうしているはずだ。
「珠帝の望みが麗蘭を殺すことではないとすると、狙いは光龍の力だろう。もしかすると黒神も其れを得たがっていて、珠帝と利害が一致するのだろうか」
「……いや」
 蘢の仮説に魁斗が頭を横に振る。
「もし奴が本当に麗蘭の力を得たいのならばとっくにそうしているし、殺したがっているのだとしても同じだ。奴は今や天治界で最強の神で、出来ぬことなど無いのだから」
 彼の言うことは尤もだった。黒神の意図などを、人間と同じ次元で考えていてもほぼ無意味だと言っても過言ではない。神とは、人ならざる者とはそういう存在なのだ。
「珠帝を(けしか)けて……楽しんでいるだけなのかもな。人間同士の戦争を起こさせて……高みの見物を決め込んでいるだけなのかもしれない」
 歯を噛みしめる魁斗の言葉は、白林での一件を思い出せば容易に納得出来た。瑠璃を使って妖たちに街を襲わせた黒神は、数百年前に終わった人と妖たちの戦いを再び始めさせかねない状況を作り出した。
「魁斗……未だ早いのかもしれないが、訊いて良いか? おまえが黒神を何故憎んでいるのかを」
 麗蘭にそう問われた魁斗は、少し目を見開いただけで特段嫌がりもしない。彼女の方に身体を向けて、自分を見る真っ直ぐな瞳を見据えている。
『俺もおまえの力が必要だ。俺は黒神を何としてでも殺したい』
 初めて魁斗と会った時から、彼は黒神への明らかな憎悪を見せていた。今後黒神を倒すという同じ目的を持ち、協力し合うならば、麗蘭は何れ彼の事情を訊いておきたいと思っていた。
「……良いぞ。あんまり楽しい話じゃあ、ないけどな」
 先日は私怨だと言って詳しく話そうとしなかった魁斗も、特に隠すつもりも無かったらしい。やや硬い顔で、ゆっくりと話し始めた。
「瑠璃が言ってたから、蘢はもう気付いてると思うが……俺は、母親を黒神に殺された」
「え……」
 最初の一言だけで既に、麗蘭は訊ねたことを後悔した。思わず蘢の方を見ると魁斗の言う通り何かしら知っていたようで、深刻そうな難しい顔をしている。
「俺の母は、かつて天界で『五闘神』に数えられた薺明神(せいめいしん)という女闘神だ。千五百年前、黒神が邪神と為った時……他の五大が奴と妖王と闘って殺されたにも拘わらず、只一人生き残ったことを悔やみ続けていたらしい」
「五闘神……薺明……!」
――魁斗の母が、其れ程の大物とは思わなかった……!
 麗蘭は繰り返した言葉を詰まらせてしまう。蘢とて同じであった。語り継がれる『薺明神』とは、天帝聖龍に剣を指南し副官として仕えたとされる天界一の闘神である。
「十数年前、俺が未だ餓鬼の頃。黒神の封印が解かれ、天界は騒然となった。奴を討とうとする者が次々と名乗りを上げ、奴の許に向かったが……誰も帰ってこなかった。俺の母も自ら天帝に嘆願して許され、たった一人で奴を討伐しに行ったんだ」
 過去を語る魁斗は至って冷静で、何時にも増して落ち着き過ぎている程だった。しかし碧く澄んだ瞳には迸る炎が映し出されており、彼の心には其の火焔と似たざわめきが、叫び声が、激しいうねりと為って押し寄せているのが伝わって来る。
「俺は其の時……母が命懸けで黒神と闘っている時、何時も通り魔界で暢気に過ごしてた。そして気付いた時には……俺は何故か、奴と母の目の前に居た」
 胡座をかいた足の上で組んだ手に、ぐっと力を籠める魁斗。そんな彼を見て麗蘭は、話を止めたい気持ちと続きを聞きたい気持ちとで揺れていた。
「……突然死闘の場に連れて来られた俺が見たのは、血塗(ちまみ)れに為った母の最期の瞬間だった。奴は俺を一瞬だけ見て……嗤って、止めを刺した」
 其処まで話すと、魁斗は浅く息を吐いた。暫く誰も言葉を発さず、薪の切れ端がぱちぱちと燃える音だけが響く。
「黒神は……母を殺した後、俺が放心しているのを見て嗤っていた。口も開けず声にも出さずに、只静かに嗤っていた。其の時は頭が真っ白だったが、後で考えれば簡単に分かった。奴が態と俺に見せたんだってことを」
 彼の話を聴きながら、麗蘭は黒神と直接顔を合わせた時のことを思い出していた。一度見れば忘れはしない、寸分の隙もないあの冷たい美貌で、魁斗を含めどれだけの者を弄び……苦しめて愉しんできたのだろう。
「赦せないな……」
 胸の奥から絞り出してきたような声で言うと、麗蘭は唇を噛んだ。
「魁斗……おまえの無念を完全に解することなど、未熟な私には出来まい。だが、此れだけははっきりした……奴を赦してはおけない」
 彼女は声を震わせていた。白林のことといい、魁斗のことといい、黒神の卑劣な行いに、ただただ怒りを覚えるばかりだった。
「僕も同感だよ、魁斗」
 そして蘢も、麗蘭以上の憤りと魁斗に対する同情を抱いていた。自分から言い出すことは無いが彼にもまた、理不尽にも両親を殺された過去が有る。魁斗の憎しみは痛い程良く分かるつもりだった。
「……ありがとうな、二人とも」
 幾らか気持ちを鎮めた魁斗は、僅かばかりか顔を綻ばせていた。(すす)で汚れた鼻を指で拭うと、頭に両手を当てて坐したまま背筋を伸ばす。
「……もしかして、君が魔界を出て旅をしているのも……黒神を斃すため?」
 魔国の王位を継ぐのに十分な実力を備えていながら、敢えて手放した魁斗。蘢は以前から、其の訳に興味が有った。
「ああ……其れが半分の理由かな。旅をしながら色んなものを見て、狭い魔界に居たんじゃ分からなかったことを識って、強い奴とも何度か戦って……此れからもそうしていこうと思ってる」
 黒神を滅するという目的を持つ魁斗にとっては、こうして麗蘭たちに同行しているのも布石の一つなのかもしれない。数日前に本人が言っていた通り、彼の望みを果たすには麗蘭の存在が不可欠なのだから。
「其れで、残りの半分というのは?」
 無理に答を求めている言い方に為らぬよう極力気を配りながら、麗蘭が問うた。
「後の半分は……」
 気の所為だろうか……先程とは異なり、魁斗は話すのを渋っているように見受けられる。
「何ていうか、嫌になっちまったんだよなあ……家が」
 其れは、些か繕った答えだった。
「母親が死んじまった辺りからずっと嫌気が差してて、いよいよ親父も死んで継承者決めって時に……限界が来た。こんなんじゃ魔王に為ったって迷惑なだけだしな」
 此の答えは嘘偽りでは無いが、深層を隠した一部分しか表していない外向けのものに聴こえた。麗蘭にも、蘢にもだ。
――他にも……何か有るのだ、魁斗には。
 麗蘭は直感する。彼は母のこと以上に、人に話したくない何かを抱えているのだと。
「我が儘を言って、随分好き勝手にやらせてもらってる。国の為に働いている蘢や、宿の為に直向きに修行を続けてる麗蘭には、頭が上がらないな」
「そんなことはない」
 魁斗らしくもない自嘲気味な言い方に、麗蘭は首を振っていた。
「私は魁斗が共に来てくれて嬉しい。未だ出会って数日なのに、とても助けられている。そして、恐らく……此れからも」
「其の通りだよ。君が居なかったら、僕なんか琅華山の妖の餌に為っていたかもしれない」
 すると、本当に数瞬だけ……魁斗が二人から目を逸らしてはにかんだ。火の光が当たっているとはいえ暗いので非常に見えにくかったが、麗蘭には確かにそう見えた。
――やはり、最初に思った通り……気取らぬ男だ。
 其れが、麗蘭が魁斗に対して抱いた印象だった。完全無欠に見えて、決してそうではない。神の如き力を持ちながら、其の心は実に人間らしい。そういう処に、何か心惹かれるものが有るのだろう。
 そしてそんな彼だからこそ、本人が話したくないであろう過去まで気になってつい立ち入ってしまうのかもしれない。
「まあ、蘭麗を助け出すまでは俺も全力を尽くす。期待に応えられるよう努めるよ」
 何時の間にか、魁斗は明るい笑みを漏らしてすっと立ち上がっていた。
「そろそろ休もう。明日向かう先は、明日の朝考えよう」
「……そうだね。流石に今日は、一寸疲れた」
 自分から疲れたと言うなど、蘢にしては珍しい。だが彼の負っている怪我と、昼間の戦い振りを思えば無理も無い。
 少しずつ間を空けるようにして横に為り、三人は就寝の準備をする。ところが魁斗だけは、突然何を思い立ったのか、再び立って深林の奥を注視する。
「……此の辺りを見回って来る。おまえたちは先に休んでてくれ」
「何か有るのか?」
 麗蘭は身を起こして魁斗を見るが、特段警戒している様子は無い。
「いや、暫く夜風に当たりたいと思っただけだ。直ぐ戻るから」
 言い終わらない内に、彼は一人で歩いて行ってしまった。横たわった時からどっと疲れが現れていた麗蘭は、瞼が重くて此れ以上開けていられず、其のまま閉じてしまう。
 仰向けに寝転んでいた蘢は、魁斗が居なくなり麗蘭が眠り掛かっているのを見ると、おもむろに起きて身体に掛けていた自分の外套を持ち上げる。麗蘭の許まで歩いて彼女に掛けてやると、もう一度元の位置まで戻って横臥する。
――本当に風に当たりに行っただけなのか、一人に為りたかっただけなのか、或いは……何か嫌な気配でも感じたのか。
 何れにせよ、蘢は此処で起きて待っていなければならない。結界が張られているとはいえ、休んでいる麗蘭を置いて行くなど言語道断であるし、自分も寝てしまうことも、其れと同じ理由で出来ない。
 眠れなくとも、横に為っているだけで身体を休めることは出来る。
 魁斗が言い置いた通り、直ぐに戻って来てくれることを信じて、蘢は軽く目を閉じた。


 麗蘭たちから離れ、樹林の中を独り歩いて行く魁斗。二人の位置を見失わぬよう注意しつつも、彼らから姿を隠すようにして奥へ奥へと進む。
 狭い木立の間を通り抜け、進行を妨げる樹々を避けて足早に歩を進める。常人よりも夜目が効くらしく、薄白い月明を頼りにしている割にはしっかりとした足取りを保っている。
 見回り、などと誤魔化した魁斗だったが、彼は向かうべき所に真っ直ぐ向かっている。魁斗にしか聴こえないある『鳴声』に誘われ、逸る気持ちを抑え切れずに急いでいた。
「やはり、俺を呼んだのはおまえか……あさぎ」
 呼び掛けて、立ち止まる。一際大きな樹の枝で羽を下ろし、冴えた銀の月光に照らし出されている一羽の鳩を見上げる。
「久し振りだな、『朱雀』が側に居るのか?」
 あさぎは只の鳥ではない。朱雀の神力に依って使役されているため、人語を解すことも出来る。血の如き紅の瞳で魁斗をじっと見詰めると、人間の女の声……朱雀と同じ声で、突然話し出した。
『昊天の君、お出でいただき恐れ入ります』
「……此の間の件なら、受ける気は無いぞ」
 警戒心を滲ませた声で、きっぱりと言い切る魁斗。微笑してはいるが其の瞳は冷たい。朱雀が自分たちの動向を掴んでいることを確信し、身構えているのだ。
『……察しの良い貴方さまのこと。お気付きでしょうが、貴方さまと聖安の公主、蒼稀上校の動きは私が把握しております』
 其の高い諜報能力を評価され、珠帝直属の諜者として仕える朱雀にとっては、自国に侵入した敵を見付け追跡するなど造作も無い。麗蘭や蘢、魁斗ですら、彼女の気配には気付けなかった。
『公主麗蘭さまをお連れすることは、我ら四神に下された最重要の任務。私が青竜上将軍にお知らせすれば、貴方がたの許へ直ぐに向かわれるでしょう』
 脅迫めいた彼女の言葉に、魁斗はやや眉を顰める。青竜とはいずれ戦わねばならぬであろうが、出来れば避けたいと言うのが本音である。
「……おまえの望みは何だ?」
 あさぎの目の奥に居る朱雀に向けて、真っ直ぐな問いを投げ掛ける。
「言ったはずだ。俺は、おまえを敵と思ったことは一度も無い。あの時でさえ……だ。今後もそうしたいが、此のままいけば叶わなくなる」
 魁斗は何の策略も持たずに、素直に心情を露わにする。下手な小細工をするつもりは毛頭無く、其の必要も無いと思っていた。しかし、彼の真摯な態度が如何程の効果を齎したか測るのは至難の業である。今此の状況で確かめられるのは、朱雀の『声』だけなのだから。
『……二人きりで直接、お話ししとうございます。暫し公主から離れ、私の許へお出で願えますか?』
 怪訝そうな視線を投げかけた魁斗は、黙考する。其の間は朱雀も一言も発さず、彼の返答を静かに待ち続けていた。
「……話というのは、何だ?」
 考えた末、やっと出たのは表も裏も無い問い掛けだった。
「只……お会いしとうございます。貴方を裏切った身で何を申すかとお思いでしょうが」
 只、会いたい。彼女の答えは、魁斗が最も恐れていた言葉其のもの。彼女は分かり切っているのだ。そう言えば、彼が彼女の許へ向かわざるを得なくなるということを。
「やはり……おまえには敵わないな」
 深々とした溜め息を漏らす魁斗の口元には、諦めの笑みが浮かんでいる。
「分かった、応じよう。此れは取引きだ」
 強く力を籠めて、朱雀だけでなく自分の胸にも言い聞かせる。朱雀の招きに応じる代わりに、自分たちの居場所を青竜に知らせるなという取引きなのだと。
「約束を違えたら、幾らおまえでも容赦はしない……おまえを『敵』と見なすということだ」
『……かしこまりました』
 あさぎは抑揚のない朱雀の声で言うと、数度羽ばたいた。
『此の林を抜け東に進んだ先に、香鹿という村がございます。必ず、お独りでお越しください』
「香鹿村だな、分かった」
 魁斗が頷くと、あさぎは再び羽を広げる。木の上に掛かった円かなる月に向けて、枝と枝との間を一直線に飛び去って行くのだった。
「……勝手に了承しちまったけど、麗蘭と蘢に如何説明すれば良いんだ……?」
 闇の中に溶けてゆくあさぎを見送りつつ、独り言ちる。
「俺は、もうちょっと自覚するべきだな。今は仲間が居るってことを」
 困ったように笑むと、元来た道を急ぎ戻る。星夜を越えた先で待つ、麗蘭たちの許へ。


 優しい陽光に包まれて、麗蘭は目を覚ます。頬を打ち過ぎゆく朝風は冷たく、半ば強引に覚醒を促してくれる。
 ゆるゆると身を起こすと、先に目覚めていた蘢が立ち上がり支度を整えている。視界に魁斗が入らなかったため見回してみるが、何処にも居ない。彼の荷物や刀も一緒に無くなっているようだ。
「蘢、お早う」
「お早う」
 麗蘭は指で目を擦りながら立ち上がり、蘢の前へと進む。
「魁斗は何処かへ行ったのか?」
「……其れなんだけど」
 昨晩麗蘭が眠った後のことについて、蘢は手短に話して聞かせた。魁斗が独りで何処かに行き、暫くして帰って来ると、寝ずに待っていた蘢に香鹿に赴くと告げたという。
 其の後、蘢と見張りを交代しながら僅かな時間だけ睡眠を取ると、麗蘭が目覚める少し前先に出発したとのことだった。
「昨夜、四神の一人である朱雀と会い、取引きをしたそうだ。僕らの居場所を隠しておく代わりに、魁斗が独りで彼女に会いに行くというものだと……魁斗本人が言っていた」
「朱雀……? 何故、魁斗が四神と?」
 話が見えないという顔をする麗蘭。説明している蘢も、彼らしくもなく幾分か困惑しており、言葉を選びながら話している。
「……白林で僕らと合流する前も、茗側に付くことを朱雀から持ち掛けられたらしい。もちろん拒否したとのことだけど」
 そう聞いて、ある一つの疑懼が麗蘭の頭を擡げる。口に出すことすら恐ろしい不安だ。
「まさかとは思うが、此のまま誘いを受け入れる等ということは……」
「其のことは、僕は余り心配していない」
 麗蘭が言い終わらぬうちに、蘢が首を横に振った。
「少なくとも、『其の積もりで』朱雀の許へ行ったのではないと思う。茗に誘われていることを態態僕に話してから行ったのを考えると、どうも違う気がする」
 蘢の口振りには、確たる自信の程が窺われる。
「何より、恵帝陛下や瑛睡公が、魁斗が君に同行することを強く望んだ。其れで十分、信じるに足る」
 主君、そして上官への信頼と忠誠。尊いものに満ち溢れた蘢の力強い言葉には、何処か説得力が有った。
「……そうだな。其れに、魁斗は黒神を憎んでいる。奴が茗側に居る可能性が有る限り、あちらに付くとは考えにくい」
 納得し、安堵した麗蘭に笑みかけると、蘢は腰帯に剣を差す。
「僕等は珪楽に向かおう。魁斗にもそう伝えたら、追い掛けると言っていた」
「珪楽……天陽が在る処か」
 懐から折り畳んだ紙切れを取り出し広げ、麗蘭に見せる蘢。
「茗の地図だ。今、此の辺りだから……都に向かって西へ行く途中に珪楽が位置している」
 地図上で見ると、珪楽までは割と近い。帝都洛永までも意外と離れていないことが分かる。
「敵地とはいえ、光龍を祀る聖域なら安心出来る。君が光龍だと知れば、巫女や覡も喜んで迎えてくれるよ」
 神に仕える巫覡たちは、国の主ではなく各々が祀る神々に仕える。神巫女を祭祀する珪楽の巫覡たちも同様で、たとえ麗蘭が聖安人だと知られようと、屹度歓迎してくれることだろう。
「其れはそうと……蘢、おまえ余り寝ていないのではないか? 夜見張りをしてくれていたのだろう?」
 そうとも知らず、一人だけ早々に寝てしまった自分が恥ずかしい。此処は敵国で、何時奇襲を掛けられても、寝込みを襲われても仕方がない。そうした危険は、気付かぬうちに朱雀に居場所を知られていたことからも 痛感させられた。
「いや、殆ど寝ていないのは魁斗の方で、僕は十分睡眠を取っているんだ。『俺は寝なくても何とかなる』とか言ってね」
 笑って言う蘢だが、彼は昨日一日で甚だしい疲労を溜め込んでいるはずだ。たった数刻の眠りではとても足りぬに違いない。
「……魁斗の口振りでは大丈夫だと思うけど、朱雀が僕らの居場所を漏らして敵が襲って来ないとも限らない。とにかく、急いで珪楽まで行こう。聖地なら安全だ」
 普通、聖地と呼ばれる土地は、其処で信仰される神の気で満ちている。珪楽ならば白い聖なる力で守られ、其れとぶつかる妖気や黒の神気を持つ者を寄せ付けない。加えて、巫覡たちが『光龍』を茗人から隠してくれるだろう。たとえ茗の王であろうと将軍であろうと、聖なる地は不可侵であるものだ。
「……分かった。珪楽に着いたら、私が剣を手に入れる間少しでも休んでいてくれ。おまえは余りに我慢強い……不安なのだ」
 心配げに自分を見詰める麗蘭に、蘢はしっかりと頷く。
「気を付けるよ。無茶をして肝心な時に戦えないようでは、格好悪いからね」
 蘢に地図を返すと、麗蘭も身支度を始める。刀を差し弓矢を背負い、衣服に付いた木葉や砂を払って襟を正す。
「待たせて済まない。では、行こう」
――私が真の光龍と為るために、力を求めて……魂の聖域へ。
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