金色の螺旋

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第八章 霞む四星

八.墜ちゆく鷹
 利洛城内廷の一角に、歴代の皇帝たちを祀る廟が在る。金色の八角堂が、皇家の霊廟だけあって燦然たる華麗さと格式高い重厚感を放っている。
 女帝珠玉は、即位して以来二十年近く、頻繁に此処を訪れている。皇族と一緒でなければ立ち入れないこともあり、祭礼の日以外は殆ど誰も近付かないので、一人きりに為りたい時には丁度良い。
 心を落ち着かせるという目的以外に、臣下との密談にも使える。一つしか無い扉を内側から閉じてしまえば、外から開けることは出来ず音が漏れ出ることも無い……今宵、珠帝が此処にやって来たのは、ある人物と人知れず会うことに為っていたからだ。
 紫の深衣を纏った彼女は、祭壇前の椅子に坐して男を待つ。相手は『元』上将軍の玄武。瑠璃を通して、今夜此処で落ち合う約束をしたのだった。
――玄武……やはり、生きていたか。
 生死不明であった玄武が本当に顔を見せたなら、約二年振りの再会ということに為る。黒巫女と玄武が繋がっていた事実も気に掛かるが、先日瑠璃と見えた時に彼の気配を感じ取っていたこともあり、全く想定外というわけでもなかった。
――妾を待たせるとは、相も変わらず肝の据わった男よ。
 普通なら考えられない非礼であっても、玄武の場合、珠帝も肯定的に捉えてしまう。彼女にとってあの男は、特別な絆で結ばれた代え難い『剣』であるがゆえだった。
 目を閉じ精神を集中させ、研ぎ澄まされた感覚で玄武の存在を確信する。彼との距離が縮まってゆくのを感じながら、座ったままで動こうとしない。椅子の直ぐ横に立て掛けた剣の剣首を片手で掴み、紅色の穂を指先で弄ぶ。
 やがて、背後の扉が音を立てて開かれた。少しして閉じられ、外からの冷たい空気が再び遮断される。珠帝は未だ、振り返らない。
「……陛下」
 懐かしい声が静寂に響く。しかし、珠帝は応えない。男が自分の近くにやって来るのを待ち、其処で漸く彼の方へと向き直る。
 珠帝の後ろに立っていた男……緑鷹は、主と目が合った瞬間、腰に携えていた剣を引き抜いた。珠帝も直ぐに剣を取り、彼が振り被ると同時に抜剣して攻撃に備える。素早い反応や少しの動揺も覚えていない様子から、彼女が緑鷹の行動を読んでいたことが窺える。
 緑鷹が放った斬撃は、珠帝の剣で受け止められた。残った右腕の筋力と神力とを剣に載せ、緑鷹は上方から押し切ろうとする。珠帝もまた、内に秘めたる神力を籠めて対抗する……彼女から滲み出たのは、強い『黒の力』だった。
 代々将軍を出す家の生まれである珠帝は、女ながらかなりの武才を持っている。其れでも本来であれば、緑鷹が片腕であるとはいえ、彼に剣で敵う程ではない。今、こうして渡り合えているのは、偏に彼の君から貰い受けた力ゆえである。
――成る程、確かに瑠璃と同じ気だ。
『陛下の神力の質が変わり始めている。最近特に……顕著に為ってきた』
 紫暗が言っていたことを思い出した緑鷹は、納得する。そして一方で、身震いが全身を通り過ぎてゆくのを感じる。剣を伝いくる邪神の力は、茗屈指の剣士である彼をも慄然とさせる程の禍禍しさを帯びていた。
――美しいな……やはり。
 彼の目が、紅く爛々とした珠帝の瞳と合う。内包する力は変われど、此の女は……珠玉。緑鷹が唯一の主と認めた焔の女傑。主君に刃を振り下ろし、剣と剣とを打ち合わせている此の状況においても、燃える魂の光に浅い嘆息を漏らしてしまう。
 より強い神力を籠めて、珠帝は緑鷹の剣を弾く。口元に何時もの微笑は見られず、豊かな唇を固く結んで彼の顔を見上げた。
 主と向かい合った緑鷹は、太刀を受け切られたことを悔しがるわけでもなく、何かに焦るわけでもなく、無表情。抜き身の剣を、腰の鞘に納刀しないままだらりと下げた。
「長らくご無沙汰を重ね、申し訳ございません」
 謝罪の言葉を口にしている割に、気が咎めている様子は無い。主君に対し跪くどころか、頭を下げることすらしない。幾ら不遜な彼と雖も、此の態度はかなり不自然である。
「良く……戻って来てくれた。だが……」
 視線を落とした珠帝は、今し方自分を狙った緑鷹の剣を見やる。
「こう為ることを……ある程度予測してはいた。おまえの矜持を傷付け、妾に斬り掛からせる程のことを……したのだから」
 主らしいとはいえない其の言葉にも、緑鷹は表情を崩さない。口を開くと、抑揚の無い声で問い掛けた。
「昔、私と陛下が交わした約束を憶えておいでですか」
 唐突な質問だった。しかし、珠帝の返答は早かった。
「……むろんだ。おまえが妾の剣と為る条件として、妾自ら申し出た約束であったな」
 あれから二十年近く経つが、彼女もつい此の間のことのように覚えているようだった。
「妾は、おまえを倦ませることの無い王と為る。其の誓約を破り、おまえが仕えるに値しない、退屈な王と為ったなら……我が夫、亡き先帝のように斬って捨てても構わぬと、確かに約した」
 閨の中で、緑鷹が瑠璃に語った珠帝との過去。彼が最後にはぐらかしたのは、此の約定を交わしたこと。
 珠帝の提示した条件を飲み、緑鷹は『玄武』と為った。焔の女帝に仕える鷹と為り、幾つもの戦で勝利し名を上げ、青竜に次ぐ英雄と為った。珠帝が見出した緑鷹という青年は、彼女の期待以上の働きで将軍にまで上り詰めた。幾多の戦場を与えられることで、剣腕だけでなく優れた軍才も発揮し始め、人格の欠点を補い人望を集めることも出来たのだ。
 一方珠帝の方も、緑鷹を十二分に愉しませた。即位後数年で『珠帝』の名を帝国中に轟かせて内政を盤石なものとし、遂には前人未踏の『人界統一』に乗り出した時、彼の心は高揚し、弾んでいた。そして誰にも見せない彼の胸奥で、密かな夢が浮かび始めた……珠帝の許で戦勝を続け、彼女を茗だけでなく人界全てを治める王にするという、彼らしからぬ夢を。其の夢は、あの紫暗を含めて只の一人にも明かしたことが無い。
「妾に剣を向け、かつ其の話を持ち出すということは……おまえにとって、妾は詰まらぬ王と為ったということか?」
 片頬に笑んではいるが、珠帝の瞳は鋭い。剣気を纏ったまま、一分の隙も見せない。応える前に、緑鷹は天井を見上げて軽く息を吐いた。
『珠帝がいずれ……王座という権力の毒巣に蝕まれ、おまえを飼うに値しない只の女に成り下がったら、如何する?』
 紫暗に誓約の話はしていないはずだったが、十九年前のあの夜……何故か彼は、緑鷹にそんな問いを投げ掛けてきた。
――俺は、『先帝と同じようにする』と答えたな。
 若かりし緑鷹は、珠帝自身が申し出た通り『斬り捨てる』と答えた。そう返答するのに何の躊躇いも無かったと記憶している。
「……もし是と答えたなら、陛下は如何なさいますか。約束通り、私の剣を受けてくださいますか」
 主を相手に少しも慎むことなく、緑鷹は率直に疑問を投げ掛ける。此の姿勢は、何年経とうが変わることはなさそうだった。
「……以前の妾であれば、喜んで受けただろう。其の積もりがなければ、元より約束などせぬ」
 先程から礼を執らず自分を見下ろしている緑鷹に、珠帝は気分を損ねる様子も無い。彼に対して昔から寛容であるということもあるが、理由は他にも在った。
「だが、今の妾は違う。今、おまえに裁かれるわけにはいかぬのだ」
 裁く、という言葉を聞き、緑鷹は驚きに打たれた。王である己に絶対的な自信を持つ珠帝が斯様な発言をしたことが、意外過ぎたのだ。
――何か俺に対し、罪悪感めいたものを抱いているのか。だからお怒りにならぬのか。
 驚愕の余り、こんな状況にも拘わらず笑みが漏れ出そうに為る。
――あの、陛下が……飼犬に『裁かれる』などと。
 緑鷹の知る珠帝ならば、彼に怯え下手に出るためにそんな発言はしないだろう。彼女は屹度、本気で罪の意識を抱いているのだ。
「おまえを聖安にやって遠ざけたのも、彼の国を煽るためにおまえの誇りに傷を付けたのも……今将に、おまえとの約束を破ろうとしていることも、全て妾が決めたこと。何の弁明もせぬ」
 言い訳はしない。自分の行いについて謝罪することも無い。其れが……珠帝という女傑。緑鷹は、そうした彼女の生き方を気に入っていた。また、自分への仕打ちに関し、彼女に謝意を示して欲しいとも思わなかった。
「……陛下は、私が随加で海賊の真似事をしていたことを咎めないのですか」
 其の問いに、珠帝は小さく首を傾げた。
「咎めるも何も、あれは妾が望んだことだ。おまえは、妾が望んだ通りに動いてくれたのだ」
 そう言った珠帝は、剣を持たぬ左手で、結えた髪を背へと除けた。
「聖安の商船を襲って交易を混乱させ、随加という主要な港町の秩序を乱して、禁軍まで駆り出させてくれた。しかも、おまえは身を挺して聖安を外交的に挑発する理由と為ってくれた。全て、妾にとって都合の良いこと」
 彼女はやや目を細め、満足げに微笑する。
「全て、妾が『予め』おまえに期待していたことだ」
 緑鷹は浅く……されど確かに頷いた。
――やはり、そうか。
 以前から、そんな気がしていた。随加に封じられ燻っている間、既に分かってはいたのだ。珠帝が自分に命じたのは聖安の貿易を妨害し、主に水軍の軍備を探ること。だが本当の狙いは、短気で狂暴な自分を苛立たせることで血気に逸らせ、聖安との戦を始める切っ掛けを作り出させることだったのであろう……と。故に態態、彼の国との国境に自分を配置したのだ、と。
 珠帝の真意に薄々気付き始めた頃、既に、緑鷹は粗野で野蛮な海賊の首領に身を落としていた。先帝を殺したあの霖雨の日、珠帝の剣と為る誓いを立てた日よりも前……少年時代に紫暗と共に分け合った夢を忘れ、中途半端な力に自惚れていた自分に、立ち戻っていた。
『貴方の神人としての能力も、剣の腕も、兵を指揮する力も、衰えている。其れなのに、貴方の野心や荒い気性は其のままで……だからこそ、珠帝に遠ざけられた』
 かつて、瑠璃にそう言い放たれた。自覚が有ったからこそ頭に血が上り、怒りを感じたのを覚えている……自分の行動の危うさを、分かってはいたのだ。四神でも将軍でも無かった、珠帝に依って遥かな夢を思い出す前とは、立場がまるで違っているということを。
 其の後、『女帝の鷹』と謳われた四神の玄武は、聖安の若い将校と剣を交え呆気なく負けた。己が愚かさゆえに名を落とし、主に依って存在を抹消され将軍としての自分を失った。
「おまえが妾に失望するのも、憎むのも頷ける」
 緑鷹の思考を遮り、珠帝が再び口を開いた。
「しかし、今の妾はおまえに殺されるわけにはいかぬ。一生おまえに恨まれ、侮蔑されることに為ろうとも、妾には王として完遂すべきことが有るのだ」
 彼女は目を瞠る程の威容を保ったまま、身動ぎすること無く立っていた。緑鷹を捕らえた朱色の双眸は炯々として、天性の眩い輝きに燃えていた。
――此の、王の気だ。俺が疾うに無くしたと思っていたものを思い出させてくれる、此の女にしか纏えぬ支配者の気。俺は……此の気を感じるために、戻って来たのだ。
 剣を地に突き刺し手放すと、緑鷹は懐から折り畳まれた紙を取り出す。書かれた文字が見えるよう広げて、珠帝へと示した。
「此れは、陛下を弑し奉ろうとした者が……私に寄越した書状です。送り主の名は、此処。陛下ならお察しのことでしょう」
 文を受け取った珠帝は、緑鷹が指差した差出人の名を見る。其れは確かに、彼女が予想していた者の名であった。
「茗に戻って直ぐ、私の帰還を嗅ぎ付けた彼から受け取りました。私は文にある通りの日時に彼と会い、陛下暗殺を持ち掛けられたのです」
 珠帝は、幾ばくかの疑いを孕んだ目で緑鷹を見た。
「紫暗に奴の身辺を探らせてみるのがよろしかろう。奴と私、他にも数名の名が並んだ連判の書が出てくるはず」
 其処まで言うと、緑鷹は一度言葉を切った。珠帝は暫時、彼が持つ書状を眺めていたが、稍あって其れを受け取り、自分の懐中にしまい込んだ。
「……もう一つ二つ、告白しましょうか」
 珠帝の顔を見て、只静かに続きを促している視線を確認すると、一呼吸置いて話し出す。
「私は陛下のお許し無く珪楽に赴き、お探しの光龍と行動を共にする蒼稀上校と見えました。光龍を捕らえよという命を無視しただけでなく、上校に聖安の『二の姫』の居場所を伝えました」
 己が犯した、極刑に処されて当然の重罪を、憚ることなく暴露する。後ろめたさはまるで無いらしく、威圧感溢れる珠帝の鋭利な眼差しを、露程にも気にしていない。
「陛下のやり方が、気に入らないのです。此れは、立派な背信ではありませぬか」
「……『緑鷹』」
 玄武ではない、彼の真名で呼び掛けると、珠帝は深く嘆息した。
「妾に何をさせようとしておる。奴と共に……おまえを処断すると言わせたいのか」
「……陛下ならば、焔の女傑と畏怖される貴女ならば、正しい判断をされると信じております」
「おまえは……!」
 何時の間に、珠帝の語気には怒りと取れるものが含まれていた。対する緑鷹はというと、悪びれる様子も無く含み笑いをしている。
「此れまでに……陛下誅殺を企んだ罪人を如何してきましたか。奴や私にも、そうすべきではないのですか」
 珠帝は、緑鷹は気が触れたのではないかと思った。もし正気ならば、此の言動を成しているであろう彼の『自尊心』は賞賛に値する。
「……おまえは、妾の用意した『玄武としての死』が余程気に入らなかったと見える」
 将軍でありながら海賊に与するという、緑鷹の愚行の存在は明らかである。本来ならば厳罰に処するべきところを、珠帝は敢えてそうせず『殉死』と公表した。茗国内において、聖安への憎しみを増長させる目的も、確かに有った。だが結果的に、『玄武』を『戦場』で『将軍』として死なせたのだ。
 表向きには名誉の死、されど緑鷹自身にとっては、聖安軍に敗れたという屈辱となる無念の死……朱雀も白虎も、其れが緑鷹にとっては酷な仕打ちであり、珠帝の裁断とは思えぬものととらえていたが、緑鷹本人は違った。受け入れがたい処置なれど、実に珠帝らしいと考えていた。
――長年の臣下である俺に残酷に為りきれず、表面だけでも俺の最期を『将軍』として飾りたかったのだろう。たとえ、俺に憎悪されることに為ろうとも。
 緑鷹はそう読んでいたが、口に出すことはなかった。珠帝の計らいが気に入らず、認められなかったからである。代わりに、先程の珠帝の言葉に応えることにした。
「仰せの通り。そして、十九年前の約束を思い出し、貴女に剣を向けたのです。だが……」
 視線を落とし、突き立てた剣を見やると、緑鷹は苦々しげに冷笑した。
「暫く見ぬうちに、随分とお力を付けたようだ。陛下ご自身に私の剣を受ける気がない以上、今の私では……斬ることはおろか、御身を掠めることすら出来ませぬ」
 先程の『攻防』で、其れは珠帝にもはっきりと分かった。
――詰まるところ、妾に断罪せよと言いたいのだな。
 珠帝の知る緑鷹は、斯様な駆け引きめいたやり取りが嫌いな男だ。其れでもこうして仕掛けてくるということは、いよいよ覚悟を決めているのだろう。
……そう悟った彼女は、深々と息を吐いた。
「緑鷹、分かっておろう。『大逆という罪』は、おまえの命一つでは贖い切れぬのだ。おまえが死した後は、おまえの一族全てが打首と為る。おまえが娶った妻も、おまえの子も、全て死に絶えるのだぞ」
 淡々と、緑鷹を怯ませる積もりで言い放つが、彼にとっては何ということもない脅しである。眉一つ動かさずに、感情の籠らぬ声で短く返答した。
「私が其の類のことを気にせぬのは、良くご存知でしょうに」
 自分の子や、子を産んだ女が死ぬと言われても、何とも感じない。そんなことよりも、自分の誇りや意志を守る方が、彼にとっては重要なのだ。
――此の分だと、近いうちに……まともに戦うことすら出来なく為るだろうしな。
 残された右手も、蒼稀上校の攻撃に依って深手を負った。肩から肘に掛けて剣で抉られ、ほぼ潰されたも同然という有様だった。今は瑠璃の治癒術と己の気力で保ち堪え、見た目でも分からぬようにしているが、剣士の腕として機能しなく為るのは時間の問題だろう。
 緑鷹は其の現実を、珠帝の命を狙った振りをしてまで、受け入れることが出来なかった。『聖安に負け、珠帝に情けを掛けられた、剣を振るうことすら出来ない玄武』として生き続けるよりは、『珠帝に刃を向け裁かれた緑鷹』として死ぬことこそが、彼の真なる望みであった。
 彼は珠帝の顔を真直ぐに見た。完璧な美貌には、僅かな戸惑いが浮かんでいる。右手に剣を握ったまま放そうとはしないが、緑鷹に切先を向ける気配は窺えない。
 鋼鉄のように冷たく重く、揺るぎない強さ。噴き上がり、全てを嘗め尽くす火炎の如き激しさ。珠玉という女は、茗の王と為るために此れら天与の賜を授かった。世間はそんな彼女を『人間離れしている』『血が通っていない』などと陳腐な言葉で表す。しかし焔の女傑とて、人。己が覇道の殆どを共に歩んできた、優れた武人を斬り捨てるは、自分の手足を失うのと同義であった。
 其のことを、緑鷹は良く知っている。だが珠帝は、人間であるよりも先ず王なのだ。王である自分と人である自分がぶつかれば、間違いなく前者として振る舞う。今直ぐでなくとも、珠帝が自分を捕えていずれ刑に処すだろうと……緑鷹は信じている。彼が生涯で只一人仕えた王は、そういう器の女だと確信している。
――俺を殺すのに此処まで迷うとは……意外だったな。
 久方振りに珠帝と見えた時、彼は思ったよりも早くことが済みそうだと思っていた。紫暗の言っていた通りで、彼女の気と力は変わり果てて人らしさを失いつつ有り、自分との繋がりも薄れているだろうと直感的に考えたからだ。其れが、態態妻や子のことまで持ち出して、思い留まらせようとするとは。
――やはり、何処までも儘ならぬ女だ。
 暫くの間、珠帝と緑鷹は言葉を発さぬまま見詰め合っていた。只、静かに時を共有し、互いに様々な思いを巡らせていた。
 やがて珠帝が、再び剣に左手を添えた。刀身を持ち上げ構えると緑鷹へと向ける。剣先は少しも下がっておらず、真っ直ぐに狙いを彼に定めていた。
「……お決めに為られましたか」
 口の端を歪めた緑鷹の声は、心なしか喜んでいるように聴こえた。腰を落として片膝を付き、珠帝の前に無防備な姿勢で跪いた。
 彼を見下ろす珠帝の瞳には、彼女らしい輝光が宿っていない。心の内に座する、王の声を聴き入れ意を決し、『人の心』を殺しているのだろうか。
「……今此処で、妾自ら。おまえの崇高な眼差しを、他の者に晒したくはない」
 正式な場で叛逆の罪に問えば、珠帝は傷一つ負っていないとはいえ、緑鷹の死罪は免れぬ。公衆の面前で、見せしめの如き処刑が待っているのである。
「茗の英雄であるおまえには……せめて、妾の剣を」
「……陛下、光栄でございます」
 緑鷹は笑って、首を垂れる。命を差し出しているというのに、彼の身体は微塵も震えず、卑しさの欠片も無い。
――此の状況……何処かで。
 振り落とされてくる剣を待ちながら、ふと、彼は思い出す。あれは随加近海にて、蒼稀蘢に破れて首を斬られそうになった時だ。
――あの時よりは、ずっと良い。
 頭を下げたまま目を閉じ、緑鷹は終わりへ向かおうとしている……しかし、彼には見えぬ所で、珠帝は思い惑っていた。剣を掴む手に力を込められず、気を抜けば取り落としてしまいそうな程であった。
――妾は今更、何を迷っているのだ。
 己の手で人を殺したことなど、何度も、覚えていない程数多く有る。自分の命を狙った刺客を其の場で返り討ちにしたことも有る。首を刎ねた経験も幾度か有る……躊躇うことなど無い。
――力を籠めねば仕損じてしまう。
 集中出来ないのは何故なのか、彼女自身良く解らなかった。こうした事態に為ることは、かなり前から予期していたはずだ。『玄武殉死』と偽りの公表をした時……いや、彼を敵国聖安へやった時から、腹を決めていた。
 ところが彼女の思考は乱れ、錯綜している。黒神の力を得始めてから時折有ることだが、彼の君の影響なのだろうか……彼女自身では、原因は其れしかないと思っていた。何故なら、自分の精神は鋼のように強靱だから。完全無欠であると、信じて疑わないからだ。
……少し間を置き、珠帝の剣は振り下ろされた。
 血は……迸り出ない。落ちるはずの首も落ちていない。骨肉を断った音も聴こえない。緑鷹の首を斬るはずの白刃は空を切り、彼の傍らへと逸れた……珠帝の剣は、外れたのだ。
――馬鹿な。
 珠帝は歯を噛み締め、俯く。眉根を顰めて前を見やると、視線を上げていた緑鷹の顔が在った。
「緑……鷹」
 小刻みに震える手を、如何しても抑えられなかった。確実に、一刀の下に斬首する自信が無かった……斬り損じれば、此の誇り高い男を必要以上に苦しませることに為る。
 緑鷹はさぞや呆れていることだろう……怒っているかもしれない。そんな想像を持って彼の顔を見たが、怒りも失望も映し出してはいなかった。
 覇気がなく神妙で、別人のような表情。微笑に近いが、笑っているとは言い表せず、己が運命を慎ましやかに待ち受けているかの如く……穏やかな面持ち。珠帝ですら、今の緑鷹の心情を解することは出来なかった。
 沈黙が広がり、二人の間で時が止まる。只、互いに見詰め合う。相手の思考を、想いを感じ取ろうとして、言葉を持つことすら忘れていたのかもしれぬ。
 程無くして、先に動いたのは緑鷹の方だった。何かに呼ばれたのか、突然珠帝に背を向けたのだ。
「……其の覚悟、しかと見届けた」
 静かで抑揚の無い冷たい声が、緑鷹の耳に届く。彼だけに囁かれた声の主は、次の刹那、突として背後に姿を現した。黒い着物に身を包んだ、黒髪の女……彼の良く見知った、闇に仕えし美女であった。
 振り返る緑鷹の眼前に飛び出した彼の女は、抜き払った剣を両手で握り構えている。剣尖は緑鷹へと向けられ、銀の刀身は鋭く閃めいていた。
――そうか、瑠璃は……何処となく陛下に似ているのだ……
 彼を魅了してやまぬ、神々しいまでの美しさだけではない。強き己を保ち、何者にも染まらない燃える魂もまた、二人ともに共通している。
――ゆえに、惹かれたのかもしれんな。
 瑠璃の剣が、緑鷹の胸を正面から貫く。心の臓を一突きされた彼は、呻き声すら立てず数瞬にして絶命する。珠帝が望んだ通りの……見事な死であった。
 力を失った緑鷹の身体は、剣を突き刺された状態で瑠璃の方へと倒れ掛かる。彼女が剣を引き抜くと支えを無くし、其のまま床へと崩れ落ちた。
 幾度となく自分を抱いた男を手に掛けておきながら、瑠璃の顔は凍てついている。何の躊躇も無く彼の命を奪い、其の後少しの未練も後悔も無いようだった。
「黒巫女……そなた、何故」
 懐から布を取り出した瑠璃は、剣に付いた血を拭うと顔を上げ、唖然とする珠帝を見据えた。
「……将軍は、陛下に剣を向けました」
「緑鷹に殺意は無かったであろう。妾に詭弁は通じぬぞ」
 明らかな苛立ちを含んだ声で、珠帝はすかさず両断する。
「……『あれ』を欲するのなら、陛下は全てを賭けねばならない……彼の君に、こう告げられたのではありませぬか」
 平然とした瑠璃の言葉に、珠帝ははっとした。あの恐ろしい邪神が初めて降臨した夜、彼が確かにそう言っていたのを思い出したのだ。
「代償……か。だが、緑鷹だけではないのだろう?」
『全てを賭けねばならぬ』と、黒神は言っていた。珠帝が望みのものを得るには、彼女が尊ぶ全てのものを奪われねばならぬのだろうか。
「……あとどれだけのものをお取りになれば、我が君が満足されるのか……私にも分かりませぬ。あの御方の御心は、誰にも分からぬのです」
 静かに告げた瑠璃を暫し睨まえた後、珠帝は膝立ちと為り、傍に剣を置いた。彼女が人前で膝を屈めるなど、『相手が神でもない限り』有り得ぬこと……しかし今は、気に留めていない。
「……されど、妾もまた……覚悟の上ぞ」
 永久に瞑目した緑鷹をゆるりと見下ろすと、珠帝は彼の顔に手を伸ばす。赤墨の髪を横に除け、左頬から耳の付根にかけて走る……彼にとっての屈辱の傷跡を、指の先で軽くなぞった。
――緑鷹……妾もおまえと同様、やり遂げねばならぬのだ。何を失ったとしても、守らねばならぬものが有るのだ。
 彼から目を離し、幾人もの帝の魂を祀る祭壇を徐ろに見上げる。
――『陛下』、改めて……貴方の御前でも誓いましょうぞ。貴方を殺めてまで手に入れた『貴きもの』を、必ずや守り抜くと。
 少し経つと剣を手にして立ち上がり、緑鷹を挟んで瑠璃に背を向ける。肩越しに彼女を一瞥して、何の言葉も発さずに鉄扉を開け廟から出て行った。
 珠帝が去ると瑠璃もまた、緑鷹を見下ろした。心が欠如しているかのような空虚な瞳は、何も語ることがない。此の男と出会い、二度命を助けながらも己が手で殺めるに至り、彼女が如何な想いを抱いていたのかは……何も窺い知ることが出来ない。
 空いた扉の隙間から、強い夜風が入り込む。寂しげな音色で鳴きながら、瑠璃と緑鷹を撫でては通り越してゆく。
「……さようなら、緑鷹さま」
 微かな声で呟くと、踵を返す。珠帝と同様、横たわる緑鷹を一度も振り返ることなく足早に退出した。
……此れが、茗の四星の一として女帝に仕えた『玄武』の最期であった。
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