金色の螺旋

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第九章 滅びの響

十三.繋がれた絆
 目覚めたとき、麗蘭は魁斗の腕に抱きかかえられていた。
「麗蘭、大丈夫か」
 綺麗な青い瞳が、麗蘭を心配そうに覗き込んでいる。何故だか気恥ずかしさを覚え、彼女は直ぐに身体を起こした。
「あ……ああ、済まぬ」
 彼が隣に立っているというだけで、身が引き締まる思いがする。詫びながら、傍に魁斗が居てくれたことに感謝した。
「……また幻影を見たのか?」
「ああ。私の好きなように戦えと……紗柄が教えてくれた」
 上宮で天陽を台座から抜いて以来、幾度も紗柄の幻を見せられ怖れを抱いた。しかし最後に目にした『記憶』は、苦悩の末に導き出された紗柄なりの『光龍』の有り様だった。
――紗柄は屹度、残酷な『鬼』などではなかったのだ。
 其れは、麗蘭の前向きな想像でしかない。だが紗柄がどんな少女であろうと、麗蘭の信念を変える必要は無く、変わることもない。紗柄の魂と剣を受け継いでいるとはいえ、麗蘭は己が決めた通りに進んでゆくしかないのだから。
――此の剣が、本当に幾多の人々の血を吸ってきたのだとしても。私は私の信じるものの為に、此の剣を振るう。
「気付くのに……随分と時間が掛かってしまった。迷惑を掛けた」
 済まなそうに魁斗の目を見たが、彼は首を横に振った。
「気の乱れも無いな。其の剣はもう、おまえのものだ」
 力強く言われると、麗蘭は改めて神剣の剣先を天に向け、其の流麗な姿に嘆息した。
「……天陽が、私を認めてくれたのだろうか」
「いや、逆だと思うぞ。おまえが天陽を受け容れたんだろう」
 魁斗の答えに、麗蘭は感慨深げな眼差しで神剣を見詰める。
「私が……此の剣を」
 彼女の肩に手を置くと、魁斗は空に留まり続けている金の竜を指差した。
「麗蘭、おまえにも見えると思うが、奴の周りに青竜の気と力が残っている……恐らく奴は未だ、青竜が施した術から完全に放たれていない。青竜は生きている」
 目を凝らし、見えざるものを見る目で竜を射抜く。魁斗の言う通り、泉栄近郊で会った時に感じた青竜の気が、怪物の周囲を取り巻いている。
「青竜が用いた術は、奴を自身の一部として取り込み繋ぐものだ。竜が消滅した瞬間、青竜の命も絶たれる可能性が有る」
 古の奈雷と同じく青竜も金竜を封じたが、彼らの手法は大きく異なっていた。奈雷が怪物を圧倒する神気で抑え込んだのとは違い、青竜は足りない力を自らの命で補うという荒業で押し切ったのだ。
「其れは……ならぬ。敵であろうとも、誰かの命を奪わずに済む方法が有るのなら、何としてでも犠牲を避けねば」
「……そう言うと思ったよ。其れなら封術だが、やり方は知っているか」
 彼の問い掛けに、麗蘭は自信を持って首肯した。過去に習ったことはないが、彼女は金竜を封じるための神術を心得ていた。天陽に宿る神巫女たちの記憶が語り掛け、彼女に教えてくれているらしい。
……ところが同時に、知ってしまった。神剣を用いたとしても今の彼女では、奈雷のようにあの竜を縛することは出来ぬと。
「足りぬのだ、力が」
 虚空をのたうつ金竜を仰ぎ見て、麗蘭は天陽を握る右手に力を籠め唇を噛んだ。今の自分とあの怪物を比べれば、怪物の力が本来のものよりも弱まっていることを考慮しても圧倒的な差が有る。其れを埋める強さと量の『光』を生み出せねば、竜に勝つことは出来ない。
――やはり、開光か……!
 気付くや否や、彼女は窮地に立たされた。開光を遂げていない以上、封印の術で金竜を制する方法は使えない。そう為ると他の手段を考えなければならない。
「魁斗、済まない。今の私では奴を封じることは出来ぬようだ。おまえの力で、奴を封印することは出来ないか」
 以前青竜と対決した時の失敗から、麗蘭は素直に助けを求める。
「多分、厳しい。俺の力は聖魔混合で純粋な聖ではないからな……」
 己の持つ力と金竜から感じ取れる力を比べて、魁斗は率直に答えた。神の血を引く彼でさえ、開光した光龍程の白の神気は持ち合わせていない。
「金竜が弱っている今なら……俺とおまえとで全力でやれば何時かは『倒す』ことは出来るかもしれないが、邪力の塊みたいな奴を『封じる』には、青竜と似たような邪術を使うしかない」
「青竜と同じ……」
 麗蘭はそう呟いた時、青竜という男は人が踏み込むには余りに恐ろしい領域に達しているのだと気付いた。金竜を倒して武功を立てたかったのか、力を得たかったのか、或いは別の理由が有るのか……彼女には分からなかったが、此の世のものとは思えぬあの怪物を取り込むなど、余程の覚悟が有ったのだろう。
「……それなら、私が其の術を……」
「駄目だ」
 皆まで言わせず、魁斗は首を横に振った。
「聖なる神気を湛えたおまえが、あれ程の邪気を取り込めば一刻と保たない。やるなら俺がやる」
 勝算は有った。魁斗は人ではなく神であり、魔でもある。金竜を身に封じたとしても、麗蘭や青竜がするよりは心身への負担を抑えられる。しかし、だからと言って只では済まないであろうことも、彼は重々承知していた。
 自ら犠牲に為ると言い切ったところで、魁斗は麗蘭が不思議そうな目で此方を見ていることに気付く。
「……如何した、何か変なことを言ったか?」
 問われると、麗蘭は慌てて頭を振った。
「いや……何となく、おまえなら金竜を『倒す』と言うかと」
 思ってもみなかった彼女の答えに、魁斗は苦笑いした。
「俺だって、たとえ敵であろうが出来れば死なせたくない。其れに、青竜が何故奴を封じたのか気になるしな」
 其の言葉で突として、麗蘭は此れまでにない考えを持ち始めた。青竜もまた、今の自分たちのような苦境に置かれていたのではないか……と。
「もし……誰かを救うために封じたのだとしたら、尚更見殺しには出来ない」
 口に出すと、麗蘭は心を決めた。天陽を両手で握り、何時の間にか暴れるのを止めて此方の様子を窺っている竜を見据える。
「……やってみる。奈雷の為した術を、私も」
「麗蘭……!」
 宿命の敵を見上げる彼女の横顔には一点の曇りも無く、輝く決意が現れていた。
「幾らおまえとて、青竜と同じ術を行えば無事では済まないだろう。先ずは、私がやる」
 正直、麗蘭に自信はない。彼女に語り掛ける巫女たちの声が、能わぬと告げているのだから。
――敵わなくとも、やるしかない。私は守ると決めたのだから。
「魁斗、援護してはくれぬか。ある程度弱らせることが出来れば、今の私でも封じることが出来るかもしれぬ」
 何か言いたげな顔をしていた魁斗だが、金竜が今にも襲いかかって来そうだという状況で、此れ以上会話を続けている余裕は無い。
「任せろ」
 短く了承した時の魁斗は、軽やかに笑んでいた。危うく為ったら必ず自分が何とかすると、腹を括ったのだ。
 天陽の発した光が弱まると、金竜は此れまでにない程哮り立った。数里先まで届くのではないかという無遠慮な音が広がり、邪気に汚れた空気を揺らす。赤金の目玉を上下左右に動かし、麗蘭に狙いを付けると鬣を逆立て、雷光にも似た邪なる煌めきを放ちつつ向かって来る。
 麗蘭は足を肩幅に開いて地を踏み締め、刃を横にして天陽を持つ。神気の壁で身を守ると、長い呪を唱え始めた。
 普通、呪というものは師や書物に学び、憶えて使うものだ。ところが今の麗蘭は、見たことも聞いたこともない呪を閊えることなく詠唱出来ている。
――天陽……いや、奈雷。忝い。
 術に専念する麗蘭の前に躍り出て、魁斗は抜刀した。隠神術を解いて力を放つと、瞬く間に神気と闘気を帯び始める。
 神力を練って雷を作り、己の刀に宿らせてゆく。呪を唱えて其の力を膨らませ、神巫女を狙い突進して来る竜に向けて振り抜いた。
 弧を描いた光の刃が額を突くと、竜は唸りながらも焔を吐いて反撃し、魁斗を炮烙せんとした。彼は敢えて避けようとしない。刀と腕を前に突き出して紅炎を纏わせ、己が神力を注いで火を鎮めるという人離れした技をやってのけた。
「ぎりぎりだったな。完全でなくて此の火力か」
 言葉の割に、魁斗の表情は愉しげだった。接近してきた金竜に向かって走り飛び込むと、刀を大きく振り被る。麗蘭の矢が貫き大穴が空いている眉間に斬り付けようとするが、竜の方が僅かに速かった。彼の真横には、金剛の如く硬い竜尾が迫っていた。
 足場の無い空中で、竜の素早い攻撃を避けるのは困難。魁斗は咄嗟に術を用いて身体を浮かせ、空気を蹴って更に上方へと跳び上がる。彼を串刺しにする勢いで襲って来た尾を躱し、軽々と宙返りして、其のまま地面に着地した。
「でかいくせに速い」
 口元に笑みを零し、左手の甲で鼻を擦る。竜が動く前に其の場から姿を消したかと思えば、次に現れたのは数丈離れた竜尾の側だった。
 攻める間も守る間も与えず、魁斗は刀を薙ぐ。霹靂の如き竜の叫び声が響くと、両断された尾が音を立てて落下した。
――本当に……良いのか、此のままで。
 巨体を捩らせてもがく金竜と、神剣を手に呪を詠み続けている麗蘭を交互に見て、魁斗は首を捻っていた。
――『今の金竜』なら、俺が抑え込んでいる間に麗蘭が天陽で斬れば消滅させられるかもしれない。
 実際に戦い、此の竜が持つ負の属性が想像以上に強いと分かった。正と負を半々ずつ分け合った魁斗の神力では、金竜を消し去る正の力が足りない。止めを刺すのなら、麗蘭に任せるしかないようだ。
――倒せることは倒せる……だが。
 頭では倒すべきだと知っていながら、先程麗蘭に告げた通り、一線を乗り越える決断が出来ずにいる。
 自身でも甘い考えだと思っているが、数日前に香鹿で会った青竜は、同じ非天に敵対する立場として、そう簡単に見殺しにして良い男ではないと感じていた。紅燐を奪われたという点では、青竜も黒神を憎んでいるかもしれない。あわよくば、いずれ其の目的を共に出来るやもしれぬ。
 金竜を滅する好機を棒に振ってまで敵を助けるという選択が良くないことだとは、魁斗も重々承知している。しかし、彼が喪ったかつての想い人――紅燐の師でもあるあの男を、此のまま死なせてしまうのは忍びないという気持ちも心の底に在り、直ぐには割り切れなかった。
 程無くして、竜はまたもや攻めの姿勢に為る。魁斗を見下ろし睨み付けながら、邪力を集めて失くした尾を生やし始め、立ちどころに傷を癒して元通りにしてしまった。
「……そうでなくちゃあ、面白くない」
 魁斗は刀を構え、繰り出される炎や竜爪を迎え撃つ。邪魔をされ麗蘭に向かえない苛立ちからか、尾を再生させた所為で邪気を弱めながらも、怒りに任せた猛攻を仕掛けてくる。
 一方麗蘭は、夢中で呪を唱えて術の発動を急いでいた。だがそうしている間にも、不安が頭から離れない。魁斗の応戦で金竜の力が更に弱く為っているのを計算に入れても、今の自分の封術で竜を抑えられるという自信が持てないからだ。
――此の術で封じられねば、方法は一つしか無い。金竜を……青竜とともに滅ぼすしか。
 青竜と同じ邪術を用いると魁斗は言っていたが、麗蘭には初めからそうさせる積もりなど無い。
――私が至らぬ所為で、魁斗に背負わせるなど……有ってはならぬ。彼には為さねばならぬことが有るのだから。
 術を行えるのは一度のみ。仕損じれば、残りの神力を籠めて麗蘭が金竜を斬らねばならない。其れを考えれば、一度成すだけでも莫大な力を用いる此の術を使えるのは一度しかないのだ。
――もう、あと少しで……!
 魁斗と金竜の攻防を正面に見据え、神力が満ちるのを待つ。珪楽の地に眠る聖気や、天陽が裂いた雲間から降り注ぐ陽光が集まり、麗蘭の力を強めてくれる。
 金竜を相手取り、半ば楽しそうに戦う魁斗の姿は頼もしい。人を超越した身体から生み出される彼の武技は、天上の剣と呼ぶに相応しい。
 されど麗蘭にも、魁斗が幾ら強かろうが、金竜を倒せないと分かっていた。戦う姿を見ると圧倒しているように見えるが、神に並ぶ程の力を有する邪悪な魂と肉体を滅すことは出来ない。其の半々の気の質が、半神半魔である魁斗の唯一の弱点なのかもしれない。
――最後は私がやるしかないのだ。だが、其の前に……私は此の一回に賭ける。
「魁斗!」
 声を張り上げて、麗蘭が彼の名を呼んだ。呼び掛けに応え、魁斗は竜から離れ距離を取る。其の刹那、麗蘭は天陽の刃を大地に突き立てた。
 神剣を伝い、光の水と化した神巫女の力が轟々となだれ落ちてゆく。圧力に耐え切れず地に穴が開き、徐々に地割れと為り、麗蘭が膝を付いた所から竜の浮いている所まで一直線に亀裂が走る。四囲に光耀を放ち、深く、深く地を抉りながら、放出された力が竜に向かいあっという間に突き抜けた。
 自身と天陽から思った以上の神力が発せられている事実に、麗蘭は甚く驚く。剣から伝わりくる振動が凄まじく、気を抜くと手を離してしまいそうに為るが、麗蘭は柄を握ってしがみ付き、倒れないよう身体を支える。
 面を上げて竜を直視すると、麗蘭が生み出し送り込む光の縄に依って縛され、躰をやや反らせていた。二つに割れた地の隙間からは幾本もの白光の鎖が伸びて、竜の頭や手、首、胴や尾に絡み付き、動きを封じて地上へと引っ張っていた。
 刀を下ろして目を細め、魁斗は発動した封術を見守っていた。其の顔に在るのは喜びでも驚愕でもなく、険しい翳りのみであった。
――足りない。
 夥しい光が竜を捕え、此の地に封印せんと引きずり込んでいる。抗い難い天の力に掴まれて、竜は身動きが取れずに呻いている。
「縛したは良いが……あれでは長くは保たない。やはり、力が足りないんだ」
 呟いて、光で結ばれた竜の向かい側に居る麗蘭に目をやる。自分と怪物を繋ぐだけで精一杯という様子で、此れ以上の神力を載せるのは不可能だと窺える。
――あの鎖が砕けたら……麗蘭にはもう、神力が残っていないだろう。そうしたら、金竜を倒すどころではない。
 左の掌を握り、力を入れる。青竜が左眼を差し出したように、『何処か』を捨てて邪術を用いる覚悟を――己自身に強いるために。
「くっ……」
 見目良い麗蘭の顔が苦悶に歪む。自らが放つ熱の量に耐えられず、剣を握った両の手が焼かれ爛れていたのだ。
「放して……なるものか。もっと力を出さねば……!」
 踏み堪え、後のことは忘れてより一層の力を解放しようとする。懸命な彼女の頭に、突如語りかけてくる『声』が有った。
――娘よ。あの忌々しい『ナライ』の転生よ。
「金竜……か?」
 確信を持って、麗蘭は相対している竜の顔を見る。あの禍物の声を耳にするのは初めてではない。一度聴けば忘れられないであろう、地の底から湧き上がるが如き特徴的な低音だ。
――分かっておろう。此の程度の光で我を縛ることは出来ぬ。貴様は未だ、真の巫女に為っていないではないか。
 見抜かれている――麗蘭は焦りと恐怖を呼び起こされ、酷く心を乱された。其れが悪辣な獣の策略だと気付かぬ程に、激しく動揺させられた。
「麗蘭!」
 恐ろしい竜の声を掻き消して、直ぐ傍で魁斗の声が聞こえた。
「奴の声に耳を貸すな。おまえの心を挫き、力を削ごうとしているんだ。俺の声を聞いていろ」
「か……魁斗」
 魁斗は術を行っている麗蘭の直ぐ後ろに膝立ちし、傷付いた彼女の手を両手で包むようにして、自分も天陽を握った。
「……良く聞け。おまえは此のまま術を続けて、奴を抑えていてくれ。俺は其の隙に、奴を封じる」
「な……」
 彼の声には迷いが無かった。麗蘭が反対する前に、強い語気で言い放つ。
「あの光鎖が壊れてしまえば、奴の動きを止めることは難しく為る。其の前に俺が封じる」
 術が成功しなければ、麗蘭は金竜を斬る積もりでいた。しかし、予想外に力を消耗させられてしまった今、実際に戦えるかどうかは分からない。術を破られた途端、倒れて動けなく為るかもしれない。其れでも、魁斗の提案を呑むわけにはいかなかった。
「駄目だ……魁斗。おまえが代償を払う……必要など無い」
 麗蘭は息を切らして苦しげに目を伏せながら、魁斗を止めようとする。彼女を落ち着かせるため、彼は何ともなさそうな顔をして、笑みさえ浮かべてみせる。
「心配するな。俺が何かを失うとしても一時的なことだ。いずれおまえが開光して、金竜を本当に倒すまで辛抱すれば良い。其れだけの話だ」
 魁斗がそう言った時、麗蘭は気付いた。自身を捨てるなどという辛く悲しい決心を、彼が容易く口にしたことを。
――何故、そう平気な顔で言える?
 考えても、麗蘭には分からなかった。分かりようもなかった。彼女は、魁斗という青年のことを未だ何も解せていないのだと、またも思い知らされた。
――おまえは私の心に触れ、私を知ろうとしてくれた。だが、私は……此のままおまえを行かせれば……
 右手で剣を握って封術を持続させたまま、麗蘭は魁斗の腕を左手で捕まえた。彼の双眸を真っ直ぐに見て、熱を帯びた手できつく掴んでいた。
「行かせぬ。絶対に行かせぬぞ」
「麗蘭……」
 此の状況で金竜を制するには、魁斗の言う通りにするしか無い。今の行いは彼を困らせるだけではなく、仲間たち……延いては人界の人々を更なる危機に陥らせかねない愚かなこと。そう理解はしていたが、麗蘭は手を放せなかった。彼を行かせる気には為れなかった。
 予想外な麗蘭の行動に、魁斗は言葉も出なかった。そうするしかないと分かっていながら、何故彼女が此処まで強く反対するのか。行かせないと言うのなら、一体如何する積もりなのか――彼女の考えが理解出来なかったが、其の必死な様子を見て安易に手を払い除けることは出来ず、また怒ったり反論したりすることも出来なかった。
 ややあって、一際大きな咆哮が満ち渡る。見詰めあっていた二人が再び竜を仰ぎ見ると、恐れていたことが今にも現実に起きようとしていた。
「術が、破られる……!」
 麗蘭の顔が青褪めてゆく。竜が渾身の力を振り絞って抵抗し、鎖が一本、二本と断ち切られたのだ。
 彼女が動じて手を緩めた隙に、魁斗は駆け出した。竜が聖なる呪縛から放たれる前に、手を打たねばならない。
 わき目もふらずに走っていたが、竜の向こう側から、誰かが馬で疾駆し近付いて来るのに気付く。
――あいつは……!
 黒馬に乗り駆けて来る黒衣の大男。先日対峙した時とは違い顔の面をしていなかったが、背に携えた大剣や銀の髪、『竜』の名に相応しい威風たる姿から、魁斗には男が青竜であると一目で分かった。
 青竜は左手で左眼を覆い、隠していた。竜を挟んだ正面からやって来る魁斗に一瞥を投げると、彼の方へ空いた右手を翳して制止した。
 思わず立ち止まった魁斗は、馬上の青竜を見る。竜の化身である其の男は、馬に乗り何時も通りの威容を保っているのが不自然な程、神力と気を弱らせていた。抑えた左眼からは血が溢れ出ており、顔や首、着物を赤赤と濡らしている。
 魁斗には何の言葉も掛けることなく、青竜は金竜へと目を移す。巨大な怪物を前にして本能で危険を察したのか、怯んだ馬は小さく嘶いて前足を浮かせた。
「此の悍ましい姿を見るのは……実に久しいな」
 そう言って馬から降りた青竜は、背中の剣を抜き払う。対した相手の戦意を失わせる凶悪な気は、今の彼には無きに等しい。しかし烈々たる気迫は健在で、武器を手にして纏う殺気は魁斗が身震いする程だった。
 そして麗蘭もまた、青竜の姿を認めていた。少しでも長く保たせるべく術を続けたまま、魁斗を止め代わりに竜に向かわんとする男を見据える。そして彼が何を為そうとしているのか直感し、言い知れぬ戦慄を覚えた。
「……貴様は未だ、私に縛されているということを忘れるな」
 怪物に告げると、青竜は顔から血塗れの左手を離した。現れた邪眼は既に人のものではない。瞳孔も虹彩も、白目の部分さえも全て黄金と為り、人の眼球とは思えぬ姿形と化している。
 一片の迷いすら見せず、青竜は己の邪眼に左の手指を突き込んだ。微かな呻き声一つ漏らさず、青竜は血が噴き出す眼窩から金の瞳を抉り出し、手の中に収めた。
 青竜は残る右眼で、息を呑み立ち尽くす魁斗と、離れた所で膝立ちし唖然としている麗蘭を順に見る。すると右手の剣を握り直し、腰を屈めて高く跳躍して、中空に浮いた竜尾の辺りまで上昇した。
 未だ竜との繋がりが切れていないためか、青竜の身体能力は常人を超えたもの。暴れてうねる金の尾に、右手で持った大剣を深く突き刺す。其の剣に掴まると更に間を空けず、反対の手に在る自分の眼を竜鱗へと埋め込んだ。
 絶叫が、轟めく。竜哭が天地を支配すると共に、所々晴れかけていた空には急速に暗雲が掛かり始め、麗蘭の成した光を遮断した。
 竜の悲鳴に続き、響いたのは凄烈な迅雷。結界に守られた珪楽は逃れたが、彼方此方で落雷して木々を焼く――其のうち一つの稲妻が、まるで天が裁きを下すかのように、凶暴な竜の頭を貫いた。
 同時に麗蘭の身体は弾かれ、遂に天陽から手を離してしまう。竜を直撃した雷撃の力が加わり、辛うじて保っていた彼女の鎖も全て砕け散った。
「此処……までか」
 胸を押さえて悔しそうに言う麗蘭は、既に体力を限界まで使い切っていた。崩れ落ちるが、片足を立てて腕を伸ばし、天陽を拾って突き立て支えにする。
 そうしている間にも、赫赫たる光が竜を包んで視界を覆い尽してゆく。麗蘭も魁斗も、目が潰れそうに為る光を腕や手で遮った。
 暫くして――怪物の慟哭が止んだ。麗蘭が伏せていた顔を上げると、氾濫する光が流れて薄れゆき、意外過ぎる光景が飛び込んでくる。つい先程まで視界を埋めていた金色が、忽然と消え失せていたのである。
「金……竜?」
 徐に立ち上がり、麗蘭は辺りを見回す。残されたのは黒い雲と、森から上がる火と煙、竜の瘴気に依って死滅した草木の残骸。そして、地に倒れ伏して動かない青竜の姿。
「麗蘭、大事はないか」
 走り来る魁斗に頷くと、彼女は青竜の方を向く。
「青竜はまた……金竜を封じたのだな」
 両目を瞑り死んだように固まっている青竜の身体からは、竜の邪気が漏れ出ている。血に染まり閉じられている左瞼の下には、元の通りに邪眼が収まっているのだろう。
「……前と同じではない。今は、青竜が制御出来ている状態だとはとても言い難い。何時食い殺されてもおかしくない」
 青竜自身の生命力は限り無く弱まっており、其の体内に金竜を留めているだけでも奇跡に近い。
「奴は……青竜は、何故其処までして金竜を封じる? 命を削ってまで奴を逃さないのは……」
 麗蘭の問いには、魁斗も答えることは出来なかった。開光していない麗蘭が金竜を封じられないことは青竜にも分かったのかもしれない。だが、あの場で自ら封じる必要はなかったはずだ。あのまま魁斗に任せていれば、自分の身を此れ以上危うくすることはなかったのだから。
 天陽を鞘に納めると、麗蘭は青竜の方へと歩き出す。背後から見ていた魁斗は、やにわに彼女を呼び止めた。
「待て! 何か来る」
 立ち止まった麗蘭は、魁斗が指差した方を見やった。何か真っ黒な生き物が此方に向かって来る。強い妖力を発しているが、青竜に気を取られて気付かなかったようだ。
「あれは……琅華山に居た……」
 紫黒の体に雪白の鬣を持つ、黒の力を湛えた獅子。麗蘭は彼の獣に飛び掛かられて正体を失い、瑠璃や蘭麗の幻に囚われた。
「ああ、間違いない。黒巫女が連れていた奴だ」
 魁斗は一度納刀した刀に手を掛け身構える。ところが黒獅子が近付いたのは彼らではなく、青竜だった。
 邪悪な大妖に接近されても、青竜が目覚める気配はない。獅子は彼の顔……左眼に鼻を付け、じっとしていた。まるで彼の中に居る、金竜の存在を確かめるかのように。
 少し経つと、美しい黒の獣は高く吠えた。長く尾を引く其の声は、竜が去り静けさを取り戻しつつある大地に響いて染み渡る。
 吠えるのを止めると、青竜の腰に頭を滑り込ませて彼を持ち上げ、軽々と背に載せる。すると麗蘭たちが反応する間も無く、黒獅子は青竜と共に姿を消したのだった。
「奴は、青竜を何処へ……」
 気を探るため集中しようと、麗蘭は瞑目する。魁斗も同様に探してみるが、術で一瞬にして遠くへ離れたらしく、追うことは出来なかった。
「見失ったが、黒巫女……或いは黒神の許だろう」
 舌打ちすると、魁斗は麗蘭の背を軽く叩いた。
「戻ろう。神力を使い切り、立っているのが精一杯だろう? 聖地で身体を休めよう」
「あ、ああ……」
 緊張が解けたのか、麗蘭は身体が急に重く為るのを感じた。足の力も抜けて其の場に倒れ込みそうに為った所を、魁斗がしっかりと抱き留める。
「済まぬ……肩を貸してくれぬか」
 麗蘭は身を起こし、歩こうとする。しかし魁斗は、彼女の背に在る弓矢を外し自分で背負うと、いきなり彼女を引き寄せて横抱きした。
「か、魁斗……!」
「無茶をするな。天陽は持っていてくれ」
 困った声を出す麗蘭を無視して、魁斗は其のまま珪楽へと歩き出す。疲れ切った彼女に優しい眼差しを向けると、肩を撫で下ろして微笑んだ。
「良く頑張ったな」
 言葉は少ないが、魁斗からの惜しみ無い賛辞。何時とは異なり、彼女は謙遜することも否定することもない。はにかんで彼から目を逸らし、小さく頷いた。
「……ありがとう。魁斗にも、また助けられた」
 金竜を己が手で制することが出来ず、黒神の使い魔に青竜が連れ去られたこと……此れから多くを考え、悩まねばならない。其れでも今、麗蘭が強く感じているものは、魁斗に何かを失わせずに済んだという安堵と、彼をもっと知りたい、知らねばならぬという思い。そして、僅かな胸の高鳴りだった。
――奇妙な。敵はもう居ないのに、何故また心臓の鼓動が速まるのだ。
 断ち切れぬ絆が、繋がれた。麗蘭と魁斗は心の底に芽生えた確かなものに気付き、認めざるを得なかった。二人にとって此れが、新たな始まりであるとは思わずに――
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