金色の螺旋

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第九章 滅びの響

六.亡滅の序曲
 星影、清かなる夜。恭月塔の最上層では、妙なる琴の調べが緩やかに流れていた。
 其の旋律は、茗で奏でられるものとは趣を異にしている。異国の、其れも茗の宿敵である国の楽であるとは知らず、女官たちは耳を傾けて仕事の手を止める。塔を守る男たちもまた、其の哀愁を帯びた音色に聞き入ってしまう。
 寂しげな音に運ばれてくるのは、遙か故国を偲ぶ望郷の想い――聴く者によっては、大切な者の許へは二度と戻れぬというやり切れぬ絶望。
 此の塔では、琴を弾く者といえば一人しか居ない。幽されて久しい、聖安の月白姫である。
 祖国に居た頃から琴を嗜んでいた蘭麗は、此処に来てからも時折室に楽師を呼んで奏法を習っていた。恐ろしい珠帝も、そうした僅かな自由までは奪わなかったのだ。
 開いた窓の側に座ると、姫は心を落ち着けて目を閉じる。美しく手入れした指を絹糸の弦に置き、押さえたり弾いたりして音を紡いでゆく。生み出された恵音が冷えた夜風に乗り、塔の下に広がる闇の湖畔へと響き渡るのを感じる。
 蘭麗が琴を奏するのは数週間振りのこと。監視されている状況下、言葉で心情を吐露することが許されない彼女は、こうして楽を用いる。悲しみに翳り、濁りそうに為る己自身を何とか保つ、数少ない方法の一つであった。
 琴に触れたのは久し振りだったが、蘭麗の指は驚く程滑らかに動く。弾き始める前は胸が激しく波立ち乱れていた心が、いつしかすっかり静まっている。
 一向弾いていた。こんなに夢中に為ったのは初めてかもしれない。奏楽に没頭する余り、曲が終わるまで気付かなかった。室の直ぐ外で、紫暗がずっと立っていたことに。
「紫暗……貴方なの?」
 強い神気を感じて楽器から手を離すと、蘭麗は御簾の向こう側へと声を掛けた。
「……はい」
 彼の声で、一気に現実へと引き戻される。立ち上がって脇の卓に琴を置き、御簾の直ぐ前に在る椅子に腰を掛けた。
「どうぞ、お入りください」
 入室を許された紫暗が入ってくると、蘭麗は背筋を伸ばして正面を見据える。
「ご機嫌麗しゅう存じます、姫君」
「……ご機嫌よう」
 簾が在って良かったと、蘭麗は心底から思う。数日泣き続けた彼女の目は腫れて、頬には涙の跡がはっきりと現れていた。食べる気が起きず何も口にしていなかったせいで、少しだけ痩せて顔色も良くはない。こんな顔で人前に出たら、屹度恥ずかしさで耐えられない。
「今宵は如何したのかしら」
 何日も誰とも口を利かなかった所為か、声の調子も思わしくない。気を抜くと上擦ってしまいそうに為る。
「何かお困りのことはないかと」
 彼の口振りは何時もと変わらず、真意を読み取らせない。しかし、蘭麗はちゃんと推し量っていた。紫暗は、自分が女官を室内に入れようとせず、食事を取らない日が続いたので、様子を見に来たのだ。『茗』は未だに蘭麗を生かしておきたいのだ……と。
「そう……なら、お願いが……有るのだけれど」
 気付けば、遠慮しつつも頼んでいる自分が居た。
「何か……お話を聞かせてくれないかしら。退屈で退屈で仕方がないのよ」
 其れらしい嘘を言ってはみたが、紫暗には勘付かれているに違いないと思っていた。稚拙に見栄を張ってまで、今の蘭麗は、誰かに近くに居て欲しかった。
「かしこまりました。どのようなお話をご所望で?」
「何でも良いわ……何か、気の紛れるものを」
 曖昧な要望を受けたためか、紫暗は暫しの間黙考していた。
「では……ある英雄の話をしましょう」
「ありがとう……そちらに掛けて」
 安心して一息つくと、蘭麗は跪いていた紫暗に席を勧める。彼は言われるがまま、御簾で隔てられた彼女の向かいに置かれている椅子に座した。
「そう、遠くない昔。とある国に、偉大な英雄がおりました」
 閑雅に詠う詩人さながらに、紫暗は滑らかな声調で話し出す。こうして物語を聞かせてくれる際の彼の声は、楽の音の如く柔らかで心地良い。彼自身意識して出している訳ではなさそうだったので、一つの才なのだろう。
「彼は比類無き武の才だけでなく、賢者の如き知性でも尊敬を集めた神人でした。人離れした強さは、時の王に重用されて『闘神』と呼ばれる程でした」
 気持ちを穏やかにさせてくれる其の声に、蘭麗はじっと耳を傾けている。
「……ある日其の英雄の国を、何の前触れもなく災厄が襲いました。神話の時代に封じられた怪物が復活し、解き放たれたのです。国中の名の有る剣士たちが、怪物と戦い命を落としました。町が焼かれて女子供が死に、人界有数の大国である彼の国も……あわや滅亡に追い込まれるところでした」
 どうやら、蘭麗が知らない話のようだった。紫暗はいつも聞いたことのない奇譚を教えてくれるので、本当に感心させられる。
「其の窮地を救ったのが、あの『英雄』です。長い戦いの中、死の危険を幾度も切り抜け、怪物の隙を窺いました。全身に傷を受けながらも立ち続けて生き残り、遂に怪物の巨大な頭に剣を突き刺して動きを止めたのです――その後、英雄は再び怪物を封じるため手を尽くしました。彼の知り得る凡ゆる神術を試しましたが、『古の巫女』に施された封印を再現することは出来ませんでした。最後の手段として試みた邪術で、彼は自分の左眼を抉り出し、恐ろしい声で唸っている怪物に……喰わせました」
 其処まで話すと、紫暗は言葉を切った。
「申し訳有りません。相応しくない話を……」
「……いいえ、どうか其のまま」
「……御意」
 蘭麗に促され、紫暗は話を続けた。
「術は成功し、怪物は稲妻のような閃光を浴びて消え去りました。代わりに残されたのは、地に足を付き顔を手で押さえた英雄の姿と……螺旋状の模様が刻み込まれ金色に輝いている……彼の、変容を遂げた眼球でした」
 淡々と口にされる異様で気味の悪い表現に、蘭麗は自分で許しておきながら眉を顰めてしまう。 
「英雄は其れを眼窩に埋め込み、怪物の……『竜』の力を己が物とした。こうして国を、人界を救った彼は、本物の『英雄』と為りました。人である自分自身と引き替えに」
 紫暗が話を終えると、ややあって、蘭麗がおもむろに口を開く。
「彼は、竜の力が欲しかったのですか」
 本当に竜を滅したかったのなら、封じ込めた眼ごと破壊してしまえば良かったのではないか……と、彼女は疑問に感じたのだ。
「いいえ……私はそうは思いません。竜の宿った金の瞳は、禍々し過ぎるがゆえに人の力では完全に消失させることが出来ず、彼が背負い御するしか方法が無かったのでしょう」
 其れはまるで、紫暗が彼の『英雄』の人となりを知っているかのような答えだった。
「結局、彼は如何為ったのですか」
「分かりませぬ。元の力を取り戻した竜に喰い殺されたのかもしれませぬし、竜と共に死んだのやも」
「……では、国は如何為ったのですか」
 其の問いにも、紫暗は頭を振った。
「語られていないのです。只、私見を述べると……国は滅んだのではないかと」
 何の迷いも無く言い切った彼に、蘭麗が首を傾げる。
「何故?」
 其れから紫暗が返答するまでに、少しの間があった。
「……竜の復活を恐れた王が、竜ごと英雄を殺そうとして失敗し封印を解いてしまう。或いは――人が求めてはならない力を求めて愚君と化し……結果、破滅に向かったのではないか、と」
 彼の意見は至って自然なものに思える。只蘭麗には、彼が現実の話をしているかのように思えてならなかった。滅びで締め括られる悲劇の結末を、憂いているように聞こえてならなかった。
 そう考えるのに特に根拠がある訳ではなく、蘭麗の単なる直感でしかない。だが彼女は、自分の感覚が恐ろしい程優れているということを良く知っていた。
「成程、王とはいえ人であるなら、人ならざる力を畏れるのは当然のことですものね……例外なのは、天をも畏れぬ『貴方の主君』くらいかしら」
 席を立った蘭麗は、傍らに置いていた琴を手に取り床に膝を付ける。琴線へと指を伸ばし、一つ、二つと弾いて音を出す。
「お礼に……一曲披露させてくださいませ。貴方のお話にぴったりな曲を思い出しました」
「……ありがたき幸せでございます、姫君」
 一呼吸おいてから、蘭麗は再び琴を鳴らし始めた。彼女が選んだ曲は、古来より広く伝わっている亡国の悲響。短調の音階、起伏の少ない曲節が使われ、滅びゆく大国の末路を切なげにうたい上げている。芸術に関しては殆ど知識のない紫暗でも知っている、有名な曲であった。
 失意に沈んだ月白姫の独奏は、並々ならぬ戦慄を感じさせる。其れも、大の男である紫暗を震えさせる程の。
――姫の奏楽は、斯様に恐ろしげなものだったろうか。
 先刻、久方振りに彼女の音を耳にした時にも抱いた感想だが、以前とは何かが……大きく異なっている。其の変化が、此処数日瞳を濡らし続けていた彼女の哀切に依るものなのか、紫暗自身の心境に依るものなのかは分からない。
 亡滅の曲に聴き入りながら、紫暗は唯一の友を思い出していた。主の許へ帰還した悪友の死は、茗という巨大な国が崩壊に向けて歩み始めていることを、確かに示していたのだ。
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