金色の螺旋

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第九章 滅びの響

八.金の竜
 走って走って、少女が辿り着いた先には、想像を絶した惨憺たる光景が広がっていた。大地には紅蓮の炎が吹き上がり、人も馬も草や木も巻き込んで、一切の慈悲を掛けることなく焼き尽くしている。鮮やかな焔に取り込まれた何十何百もの者たちは、物凄まじい呻き声を発して命を吸い取られ、生きながら焼かれる苦しみを呪って死んでゆく。
 此処が味方の陣中なのか茗軍の中なのか、判別が出来ない。幕舎も軍旗も、何もかもが炎熱の波に飲まれて燃えている。
 焼けた肉の臭い、そして血の臭いに鼻と口を覆った少女は、身構えつつ黒く染まった空を仰ぐ。すると次の刹那、人々の叫喚を掻き消して、此の世のものとは思えぬ奇怪な咆哮が降ってきた。
「り、竜……?」
 其れは、少女が初めて目にする竜だった。自分よりも数倍大きい鬱金の巨躯は強烈な光を放ち、余りの眩しさに目が潰れるかと思う程であった。金色の鬣や髭を揺らして長い尾をくねらせ、未だ生きている者を探して飛空している。
 口を開き、隙間無く生えた金の鋸歯を見せると、喉奥で練り上げた火炎の玉を吐き地に落とす。焼き殺されずに済んだ者を見付けると、其の者目掛けて下降してゆき頭から噛み砕く。或いは手で両肩を掴んで空へと連れて行き、左右に真っ二つに引き裂いて殺した後放り捨てる。
 少女は我知らず唾を飲み込み、喉を鳴らした。彼女の姿を認めた怪物が、一気に距離を詰めてきたからである。
 咄嗟に呪を唱え、今自分が作れる最も強力な防御壁を纏う。聖なる神力が一瞬にして少女の身体を包み込むと、途轍もない速さで肉薄して来た竜が、彼女の直ぐ前で光の壁に阻まれ弾かれた。
「良かった……! 効いた!」
 一先ず安心したが、竜が怯んでいる僅かの間に体勢を整えねばならない。其の場から走って離れると、先程竜に喰われて死んだ兵の許に向かう。炎と黒煙を避けるため、燃えている辺りを避けて選んだ。
 男の死体は原型を留めていなかったが、少女の期待通り長剣を携えていた。彼女は今小刀しか持っておらず、あの巨大な化け物と戦うには分が悪過ぎたのだ。
 迷うことなく死体から剣を外すと、小さな身には大き過ぎる其の剣を抜き払って呪を唱える。銀の刃が光り始めた時、竜は再び少女へと狙いを定めていた。
 一丈程離れたまま、中空に浮かんでいる竜と向かい合う。黄金の眼球が放つ鋭光が少女を射抜いたが、彼女は身動ぎしない。両の手で柄を握り剣先を竜に突き付けると、真っ直ぐに駆け出した。
「やあああああ!」
 声を張り上げ果敢に向かってゆく少女だったが、彼女の力を測った竜が其れ以上の邪力を以て応戦する。屠った者たちの血肉がこびり付いた口を開け、瘴気の渦を吐き出した。
 己の神力を上回る毒の気を浴びそうに為り、少女は慌てて立ち止まり退こうとする。しかし間に合わず、避け切ることが出来なかった邪気を身に受けてしまう。
「ううっ……!」
 全身に強い痛みを感じ、少女は胸を押さえて膝を付く。剣を地に刺し辛うじて身体を支えるが、暫く立ち上がれそうにない。
――不味い……立たなきゃ! じゃないと死ぬ!
 過去にも死の恐怖に直面したことが有るが、此処までのものを感じたことは無かった。呼吸が荒く為り冷や汗が出て、全身が驚く程震えている。
 そんな彼女をじっと見下ろしていた金の竜は、まるで彼女が脅え苦悶するのを愉しんでいるかのように見えた。邪悪な竜の吐息は大気を穢し、瘴気と共に少女の身体を弱らせる。此のまま一思いには殺さず、彼女が苦しみ抜いて絶命する様を見物する積もりなのだろうか。
 為す術も無く諦め掛けた時、少女は背後から近付いて来る馬の嘶きと蹄音を聴いた。首だけ回して振り返ると、馬に乗った見知らぬ青年が直ぐ其処までやって来ていた。
 柄の長い鳳嘴刀を片手に、此方を目掛けて一直線に走り来る。瞬く間に近付いたかと思えば反応する隙も与えず、竜の額に大刀の刃を突き刺した。
 焦土を揺るがす地響のような竜鳴が轟き、広がってゆく。其の余りの大きさに、少女は思わず耳を塞いでぎゅっと目を瞑る。
 剣の刺さったまま唸り続けている竜は空高く上昇し、苦しみの為か幾度も旋回していた。眼と眼の間からは真黒い血を流し、金の躯からは紅赤の瘴気が噴き出ている。暴れるうちに頭に刺さった剣が抜け、青年と少女から離れた所に真っ直ぐ落ちて来た。
 暫くの間上空でのた打ち回った後、両手を上下に動かして這い上がり、竜は黒雲立ち込める天に向かい更なる高みへと消えて行く。不気味な鳴声も次第に遠ざかり、程無くして完全に聴こえなく為った。
 少女を助けたのは、上物の外套を身に付けた褐色の肌を持つ青年だった。彼は落下した自分の刀の許まで行き、馬から下りて拾い上げた。
「……物凄い邪気だ。此れではもう、使えないな」
 刀には黒い血が纏わり付き、耐え難い異臭を放っている。高所から落ち地面に衝突したため、刀身も弛んで使い物にならなく為っていた。
 地に刃を突き立てて手放し、置き去りにして歩き出す。少女の前まで来ると、目を丸くして自分を見上げている彼女を一瞥し、先程の攻撃で少しだけ乱れた自分の衣服を直した。
「随分とあっさり引き上げましたね……封が解けたばかりだからでしょうか」
 青年――燈雅は辺りを見回し、両の目を細めて気を探る。竜の気が跡形もなく消え去ったことを訝りながら、剣を支えにして立ち上がった少女を見た。
「そなたのような子供が、あれ程の毒気に中てられて無事とは」
「あ、あたしは『子供』じゃ……」
 不満を口にしようと燈雅を見た時、少女は彼が身に付けている階級章に目を留める。
「あなた……茗の人?」
 胸章が聖安軍のものでないこと、かなり身分が高い軍人のものであることは、少女にも見て取れた。敵である自分を前にしてもなお、瞬きを繰り返しながら物珍しそうに見てくる彼女に、燈雅は溜息を付いた。
「聖安の兵か。こんな幼い少女を戦場に送らねばならない程、兵力が不足しているのですか」
「だから、あたしは幼くなんかないってば!」
 齢十四とも為れば、嫁ぐことも出来る立派な女だ。何処かでそう聞いたことや、大人に混じって戦っていることから、彼女に自分が子供だという感覚はなかった。
 怒って声を荒げた少女に、今度は燈雅が不思議そうな眼差しを向けた。
「……先程は身動きすらままならなかったのに、驚くべき回復力ですね。聖安の優秀な神人ならば、助けない方が賢明だったかもしれません」
 彼がそう言った途端、少女は腰に差していた小刀に手を掛けた。此処が戦場であり、敵と向かい合っているのだということを、彼女は漸く思い出したのだ。 
 少女が初めて自分に敵意を見せると、燈雅は構わずに踵を返した。
「……こう為った今、茗だの聖安だのと言っている場合ではありませんね」
 呟くと、側に居た馬に跨がり手綱を引く。視線を下げて少女を見やり、冷然として言った。 
「同じ『人』として『忠告』します。急いで陣に帰って、『金の竜』が顕れたと指揮官に伝えた方が良いですよ。高名な白林軍を率いる采州侯ならば、あの怪物のことを知っているでしょうから」
 身に付けている軍服や持っていた刀から、燈雅は少女が采州侯の兵だと直ぐに見抜いた。不意を衝かれた彼女が呆けていると、彼はもう一度溜息を漏らした。 
「……私の言っていることが解りますか?」
「わ、わかるよ!」
 彼女が叫ぶのとほぼ同時に、燈雅は馬を走らせていた。竜が消えた今も燃え続けて揺れる、灼熱の炎の間を駆け抜けて、其の背中は見る見るうちに小さくなってゆく。
「あの人、偉そうで腹立つけど……お礼言えなかった……」
 青年の姿が見えなく為ると、少女も方向を変えて走り出した。彼に言われた通り、陣に戻ってあの怪物のことを報せねばならなかった。今は完全に消え失せているが、何時また顕れるか分からない。
 金竜との邂逅で生還した強き少女は、立ち止まることなく疾走する。人ならざる禍物より、此の人界を救うために。 
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