金色の螺旋

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第九章 滅びの響

九.一縷の望み
 茗軍の青年将官と別れた後、少女は直ぐさま自陣へと戻った。幸いなことに、馬で偵察に来ていた仲間の兵と会い、途中からは彼の後ろに乗せてもらうことが出来た。
 少女は着くや否や、采州軍の将である梨啓将軍に参謁を願い出た。梨啓は白林総督を兼ねる采州侯の地位に在り、神人軍をも束ねる聖安有数の将軍である。軍に加わって日が浅く階級も低い少女が謁見を望み、簡単に会える相手ではない。
 だが意外にも、少女は彼の前へすんなり通された。昨日の戦闘で少女の活躍が目覚ましく、彼女の知らぬ所で梨啓にまで噂が伝わり興味を持たれていたから……というのが理由であったが、当の少女は知る由も無かった。
 興奮が覚めやらぬまま、少女はつい先程己の目で見てきたことを其のまま梨啓に告げた。彼女が話を進めると、梨啓の顔が驚愕と戦慄の色に染まり、やがて困惑、絶望に変わっていく。
 信じたくない話ではあるが、彼は始めから少女の言葉を疑わなかった。現に偵察に行かせていた他の部下からも、空の様子がおかしいことや正体不明の邪気について報告を受けていたし、少女の様子や話の内容から作り話だと一蹴することは出来なかった。
 間を空けることなく、梨啓は立ち上がって部下に馬を用意させた。何を思ったのか、『金竜と対峙した』という此の少女だけを連れて、本陣に行くと言い残して陣を出た。
 梨啓に連れられ少女がやって来たのは、聖安軍本陣の最奥――瑛睡上将軍の幕舎であった。

――す、すごい天幕だなあ……
 少女は此処が何処かも分からぬまま、采州侯の幕舎よりも広い造り、豪華な内装に感嘆しつつ見回している。殺伐とした戦地とは異なる別世界の如き様は、何処ぞの宮殿か屋敷かに迷い込んだのではないかと錯覚する程。
 奥に掛けられた、大きな紫色の綴れ織に目を留める。室の中でも一段と目を引く其れには、中央部分に美しい黄金の双頭龍が織り込まれている。
――禁軍の、女帝陛下の御旗。
 こんな状況にも拘わらず、少女は暫し現実を忘れて羨望と敬愛の目で御旗を見上げた。聖安の剣士にとって、此れは憧れであり目指すべき尊いものの象徴。貴い身分に生まれついた者か、非凡な才能と志を持つ者のみが掲げることの出来る、至高の印なのである。
「閣下」
 双頭龍旗に見入っている暇は無く、少女は梨啓の声で我に返った。彼が『閣下』と呼んだのは、御旗の掛かっている壁の前に座した壮年の男だった。
「ご挨拶申し上げろ。瑛睡上将軍閣下だ」
「え、瑛睡……閣下?」
 少女は反射的に姿勢を正して頭を下げ、深々とお辞儀をした。
「は、ははは初めまして……閣下」
 大将軍、瑛睡。少女にとっては夢物語の英雄である存在が、直ぐ目の前に座っている。こっそり自分の手の甲を抓ってみたが、はっきりとした痛みを感じる。夢ではないと確信したところで、今度は高鳴る心臓の鼓動を押さえようと努めなければならなく為る。
「うむ」
 緊張の余り名乗ることすら忘れた少女に、瑛睡は微笑ましい視線を送った。
「梨啓、此の者はおまえの軍の者か?」
「左様でございます」
 内心、瑛睡は梨啓を軽く叱責してやりたい気分に為っていた。如何に兵不足とはいえ、目の前の『少年』は戦場に出るには余りに幼くか弱い。実際には十四に為る『少女』だが、彼にもまた、彼女が十を一つか二つ過ぎた程にしか見えなかったのだから。
 確かに『神人』は『只人』とは事情が異なり、年少の子供でも大人以上の神力を発現することが有る。白林の神人軍という特殊な軍を束ねている梨啓は、感覚がずれていてある意味仕方がない。しかしどれだけ強かろうが、瑛睡は幼い子供を戦場で用いることに抵抗が有った。
 ところが、瑛睡が少女の前で彼女が『子供』だと意識させる言葉を発することは無かった。彼女が多くの若者が瑛睡を見るのと同じ畏敬の眼差しを向けているのに気付いていたし、幼くとも、腰に使い慣れた短刀を差している立派な剣士であるがゆえに。そして彼女が身の内に並外れた力を宿していることも、彼は勿論見通していた。
「閣下、此の者が見聞きしたことをお耳に入れたく」
 自分の背後に背後に立ち固く為っている少女を、梨啓が肩越しに見る。
「さあ、おまえの言葉が本当なら、閣下に全てお話ししてみよ」
「は、はい」
 少女は歩み出て、やや不安な面持ちで瑛睡を見た。初めて目にした彼は、彼女が想像していた以上に立派な風貌かつ、優しげな柔らかさを持ち合わせていた。相手が未だ子供だからなのか、元来の性格からなのかは解らないが、戦闘前の将にしては余裕の有る穏やかな様子で、少女を幾分か安堵させた。
「……夜が明けて、陣から少し離れた川辺に居ると、空の色がおかしいことに気付きました。西の方に見たことのない、大きな生き物が飛んでいるのを見て、妖だと思って追い掛けました」
 少し前に梨啓に報告した通りに、少女は明け方の出来事を思い出しながら話す。
「どちらの軍かは分からないのですが陣が在り、其の怪物に荒らされていました。兵は殺され、何もかも燃やされて……酷い有様で」
 彼女が皆まで言わぬうちに、瑛錘は梨啓を見やる。
「……此の者の話から凡その位置を特定しましたが、聖安の軍ではありません」
 梨啓はそう言ってから、少女に話を続けるよう目配せした。
「怪物はとても大きくて、簡単に人を丸飲みしていました。金色の躯で金色の鬣、金色の両眼……全て金の、竜でした」
「金の竜……だと?」
 突然、瑛睡の目の色が明らかに変わった。座している椅子から身を乗り出し、険しく鋭い目付きで少女を凝視する。温厚な表情から一変した彼に数瞬気圧され、少女は出し掛けた言葉を飲み込んだ。
「……続けよ」
「は、はい」
 瑛睡に促され、少女は慌てて話に戻る。
「戦いましたが邪気に中てられ、殺されそうになったところを……茗の軍人に助けられました。あの人が剣で竜を刺して、竜は空に消えていったのです」
 敵に助けられたという部分を言うか否か迷ったが、梨啓に全て話せと命じられた以上、隠すわけにはいかなかった。しかし少女の予想とは裏腹に、瑛睡は彼女の「失態」を少しも気にしていなかった。
「金竜と戦った……其れで無事とは」 
 信じられないという顔をして、瑛睡は梨啓に目をやった。梨啓は何も言わず、只深々と頷いているだけだ。
「して、おまえを助けた茗人とはどのような者だったのだ?」
 再び少女の方を向き、瑛睡が尋ねた。
「あ……あたしには、何処の軍の誰だということは分かりませんでした……とても身分が高そうで、柄の長い剣を使っていて、すごく強かったという以外は……」
 辿々しく話す少女の横から、梨啓が付け加える。
「閣下、其の茗の者は金竜が現れたことを私に伝えよと言っていたそうです。また、『封印』のことも口にしていたと」
 其れを聞いて、瑛睡はますます思案顔に為り目を閉じた。彼が想像するに、高貴な生まれの者で優れた大刀の使い手であり、そんな発言をしそうな茗人は僅かしかいない。
 かつて茗を脅かした異形、金竜の封印について知る者となると、更に限られてくる。敵国である聖安では数える程の者しか知らぬ事実であり、当事者である茗でさえ、皇族や最上位の官吏や将官のみしか知らないという。
「成程……では、副将の燈雅皇子あたりだろうな」
 呟いてから、瑛睡は眉間に皺を寄せて沈思し始めた。少女の話が真実ならば、自分の下す判断が聖安軍だけでなく聖安の民、延いては人界中の運命を左右するのだ。
「青竜は、奴は如何為ったのであろうか。金竜が『出て来た』ということは、奴は……」
 其の問い掛けに、梨啓は頭を振って答えた。
「未だ、はっきりとはしませぬが……青竜将軍が金竜を左眼に封じてから、既に九年近く経っております。幾ら類稀な神人とはいえ、身体に限界が来ていた可能性は高いかと」
 天下に名高い白林の神人軍を率いる梨啓は、人ならざる者や邪術の類に精通している。自分が経験したことでは無いが、人が人外のものを身体に封じ込める恐ろしい技が如何に困難で危険であるか、知識として良く知っていた。
「……梨啓将軍。此の初戦は、恐らく此処で止めであろうな」
 思いも寄らぬ展開に、少女は言葉を発さずに瞠目して固まっていた。将軍たちの会話が良く飲み込めなかったこともあるが、自分が見た怪物が戦の行方を変えてしまう程重大な存在であると知り、酷く動揺していたのだった。
「……そう為るでしょう。茗側も、金竜が出たとなれば戦などしていられないはず。時間の問題かと」
 梨啓の応えに、少女は先程あの青年が言っていたことを思い出した。
『……こう為った今、茗だの聖安だのと言っている場合ではありませんね』
 たとえ十五年以上にも亘る長い敵対関係であろうと、国と国との諍いなど金竜の脅威に比べれば大した問題ではない。先刻遭遇した怪物の影響力を知れば知る程、少女は自分が大事に巻き込まれてしまったと実感する。
「そしてまた、彼の化け物が姿を見せることがあれば……今一度停戦することも止むを得ぬかと存じます。『今度こそ』我々も、国を上げて戦わねばならぬやもしれません」
 そう言う梨啓も瑛睡も、話に聞いただけではあるが、金竜が青年の攻撃で消滅したとはまるで考えていないようだ。天に消えた竜が其の後如何為ったのか、気を読めぬ少女には推測しようもない。しかし竜に剣を突き立てた青年も、未だ生きているという口振りだった――金竜は、あれしきでは死なないという認識なのであろう。
「金竜に備え、我が白林軍を編成し直しましょう。相手が金竜となれば、神人兵でなくば無駄死にするだけです」
「……そうせよ。私は恵帝陛下にお知らせすると共に、燈雅皇子に遣いをやろう。定刻に戦鼓を鳴らすのは一先ず止める。向こうも其の積もりだろう」
 其処まで言うと、瑛睡は大きく息を吐いてから少女に話し掛けた。
「おまえ、良くぞ生きて知らせてくれた。名を何という?」
 出し抜けに名を尋ねられ、少女は肩を跳ねさせて硬直した。
「ゆ……ゆゆ、友里といいます!」
 幕舎に入ってきた時から友里を少年だと思っていた瑛睡は、女名を聞いて驚いた。暫し彼女をじっと見ていたが、やがて数度大きく頷いた。
「友里か。覚えておこう」 
 今ならば、友里にも分かる。此れは危機的状況なのだ。瑛睡という男は其の危地に最も近い処に立っていながら、何時の間にか朗らかに笑っている。
 想像を絶する災いと対面し、息つく間も無く雲の上の存在である瑛睡の前に連れて来られた友里は、言い知れぬ恐怖と驚愕で混乱し通しだった。未だに夢ではないかと疑う程に、強烈な震撼が続いていた。だが、悠然と構えた瑛睡の微笑を目にすると、訳も無く安心してしまうのは何故なのだろうか。
 瑛睡はというと、幼くも優れた神人である友里を見つけた嬉しさに浸っているばかりでは……当然、なかった。何故金竜が復活したのか、此れから茗との戦を如何するか、そもそも青竜に何があったのか、冷静に思考を巡らせていた。そして、金竜に対抗出来るであろう神巫女と半神の公子のことを思い出し、彼らの存在に一縷の望みを掛けていた――
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