金色の螺旋

前に戻る目次次へ

第十章 落暉の女王

三十一.始まり
 金と黒の竜が顕現し、人界が光と闇の脅威に呑み込まれた時。麗蘭の腕の中で、掛け替えのない者が喪われた。
 其の者――母恵帝の死は、麗蘭の与り知らぬところで予め定められたものだった。妹である蘭麗は一年も前から予知夢を見ていたし、母が都を出て自ら死地に赴いたのも、大いなる意思に動かされたがゆえのこと。
 されど、其の宿を誰が何時決めたのかは分からない。確かなのは、恵帝の犠牲に依って光龍の『開光』が成ったという結果のみ。
 実際の『開光』は、麗蘭が想像していた形とは違っていた。力を制御出来ずに我を忘れることも、過去に生きた神巫女たちの記憶に埋没することも無い。
 只、身の内に宿る龍の存在に気付かされただけ。矮小な身体に閉じ込められていた偉大なる光が、五百年の時を経て目覚めるのを感じただけ。
「どうして……母上が此のような目に遭わねばならぬ。総ては私の責なのか……?」
 開光を切望してはいたが、初めから分かっていれば望まなかった。しかし、今の麗蘭は自ずと悟っていた。万一知っていたとしても、此の宿は避けて通れなかったのだと。
 白百合の花弁のような母の顔は、眠っているだけに見える安らかさを湛えていた。あの優しい微笑を二度と目に出来ない。母娘の歓びを分かち合うことは二度と能わない――此れは夢幻ではなく、現実に降り掛かった惨禍だった。



 金竜と珠帝を喰い殺した黒神は、暗い中空で荒ぶり突風の如く旋回した。
 猛る心を抑えられぬ魁斗は、抜き身の刀を手にしたまま黒い竜を目で追い回す。鋭利な視線を感じたのか、黒神が無機質な両眼で次に捉えたのは、他ならぬ彼であった。
 怒涛の速さで直進して来る黒竜を、魁斗は刀を水平に構えて迎え撃とうとする。しかし敵には戦意が無く、彼の直ぐ前にまで来て宙返りし、天へと急上昇して行った。
 巨体が翻った際に風巻が起こり、魁斗は両腕を交差し衝撃を防御した。受け切れずに後方へ、かなりの距離を飛ばされたが、体勢を崩さず綺麗に着地する。
「しまった」
 舌打ちして麗蘭の居る方を見ると、案の定、黒竜は彼女へと迫っていた。透かさず走り出し追い付こうとするが、邪神が吐き出していった黒い炎に道を閉ざされる。接近しただけで骨まで焼き尽くす黒焔は、黒神と麗蘭を中心にして円を描き彼らを封じ込めた。純度の高い黒の気ゆえに、魁斗の力を以てしても消せそうにない。
「麗蘭!」
 彼女の名を大きく叫び、胸の奥で地団駄を踏む。流れ来る気の変化で、開光を果たせたのだろうという予感はしていたが、黒神が相手では退けられる確証は無い。
「無事でいてくれ……麗蘭」
 恩人である賢君、恵帝の神気が消えた。敵とはいえ、青竜と珠帝も立て続けに落命した。斯様な陰惨なる状況で麗蘭まで失っては、聖安と茗、延いては人界の命運も尽きるであろう。
 人界の行く末、母と紅燐の仇である黒神への復讐――彼が麗蘭の安否を気遣うのは、今や其れらのためだけではなかった。
「おまえに何かあったら、俺は……」



 失意の底に沈没し、哀しみに暮れていた麗蘭は、音も無く広がる黒い火に取り囲まれていた。奇妙にも熱くはないが、彼女が今最も嫌悪する邪気を有し、徐々に勢いを増して燃え狂っている。
 命を失くした母の側から離れようとはしなかったが、神力を使って手元に天陽を喚び寄せる。片膝を立て、母を守るようにして警戒を強める。
 心身が拒む黒の力から逃げたくて我慢ならなく為るが、母を置いて去るわけにはいかない。加えて光龍として覚醒した今、『彼』とは対決せねばならぬ。此れ以上、憐れな贄を増やさぬために。
「黒龍、居るのだろう?」
 決心して涙を拭い、闇の深みへと問い掛ける。噎び泣いたがゆえに、低めに出した声は心なしか嗄れていた。
「私は逃げも隠れもせぬ。姿を現したら如何だ?」
 禍殃の波に呑まれながらも、勇気と誇りは奪われていない。黒神への滾る敵意と、母の前で臆病な姿を見せたくないという気概が、麗蘭に勇壮さを与えていたのだ。
 彼女の声に応えた邪神は、人の姿に転じて黒炎の中から現れ出ずる。九年振りに見た黒龍神は、初めて出会った時と全く変わらぬ姿をしていた。
 黒曜石の双眸に、後ろで高く結った漆黒の艶髪。歳の頃は、人の子で言うならば魁斗よりも少し上位に見えた。只の少女であれば忽ち魂を抜き取られてしまうであろう程の、壮絶な美々しさを纏っている。
 正対して立って居るだけでも、身体の芯まで氷結させられかねない黒の気を感じる。震い慄きはするが、竦んで歩けなく為る程ではない。同じ黒神の力であっても、琅華山で妖を操っていた淵霧が発していたものの方が、麗蘭の身にはより応えた気がする。今対峙している邪神が意図的に気を抑えている所為なのか、彼女の遂げた開光が耐性を強めた所為なのかは分からない。
「金竜の封印を解いたのは、二度ともおまえの仕業か?」
 答えは返ってこない。しかし嫣然とした微笑みが、是という応えだと明確に語っている。
「珠帝に手を貸し、母上を殺せと唆したのはおまえか? 青竜を殺せと煽ったのは……おまえなのか?」
 またも何の返答も無いが、麗蘭は同じく是と受け取った。
「どうしてこんなことを……こんなことをして、何をしたいというのだ」
 黒神の動機など、問うても無意味であろう。答えを知りたいから訊いたのではなく、彼を糾弾するために尋ねたのだ。
 金竜を解放して人界に厄災を降らせ、珠帝を操り終いには彼女の臣下共々屠った。そして過去には、魁斗の母を惨たらしく殺した。
 麗蘭は怒っていた。黒神の全てを否定し、滅ぼしたいと心底願っていた。其れは自身が光龍であるから生じたものではなく、数々の非道が許せないがゆえの義憤だった。
「其の、君の顔」
 漸く口を開いた黒神は、唐突に言った。おもむろに身を屈め、片方の膝を地に立てる。激昂し揺らいでいる麗蘭の瞳を見詰めると、あどけなさの残る澄み切った笑顔を浮かべた。
「君のそういう顔が見たかったのさ。其れだけだよ」
 言われるや否や、麗蘭は天陽を振り抜いた。黒神の首元を狙ったはずが、彼が忽然と姿を消したため空を切る。
 数刻前まで、麗蘭が最も憎んでいたのは珠帝だった。だが、今は違う。今此の瞬間に許せないのは、他の誰でもない黒の邪神だ。
 敵の気に合わせ、隙を作らず即座に後ろを振り返る。読んだ通り、黒神は麗蘭の真後ろに動いていた。
「何故、戦わぬのだ」
 天陽を固く握り、自身を奮い立たせて問い質す。
「私は『開光』した! 貴様とも戦えるはずだ!」
 斬り掛かられても変わらぬ微笑を作ったままで、敵は些かの戦意も見せようとしない。
「――未だ、足りない。君は未だ、僕を殺せない」
 囁くように断言すると、麗蘭に止める間を与えず空間に溶けて消えた。姿だけでなく気も完全に消え失せ、黒神が此の場から居なくなったのは明白だった。
 取り残された麗蘭は、放心して其の場に立ち尽くしていた。黒神が消えたことで、周囲を取り巻いていた邪炎も威力を弱めてゆく。
 大気を、大地を穢していた非天たちの力は、もはや無い。暫く経つと黒雲も晴れゆき、空も元の様相を取り戻し始めた。
 麗蘭は足下に天陽を置き、仰向けに倒れている母の側で跪いた。敵前で乾き掛けていた涙が再び溢れ出し、美しい骸と為った母の上体を起こして抱き締める。
「貴女からいただいた神巫女の力……決して無駄にはしませぬ。決して」
 かくして、光龍と黒の神の戦いは幕を開けた。研ぎ澄まされた憎悪よりも、深遠なる無に沈められてゆく――嘆きの底に墜ちてゆくような、悲しい悲しい始まりだった。
前に戻る目次次へ
Copyright (c) 2012 ami All rights reserved.
 

-Powered by HTML DWARF-

inserted by FC2 system